諸田賢順・筑紫箏(筑紫流箏曲)

諸田賢順は、古来の雅楽から発生した琴曲と、浄土宗に伝わる宗教楽「善導寺楽」のうち、琴(箏)を独立した楽器として位置づけ、更に中国古代の様式や、漢詩などを加味した、琴独自の演奏様式を歌謡をあみだしている。

それが後世に八橋検校に受け継がれて、今日の現代箏曲へと発展していった。

賢順が意図した宗教的、精神修養の目的から変貌したが、一般の人々にも受け入れられやすくなったともいえる。

善導寺楽

開山の祖「鎮西上人」は藤原基房から箏を伝授されていたし、英彦山とも親密な関係を持つが、大本山善導寺では開山以来、仏事の催しに「箏や琵琶」などの楽器をお経の伴奏に奏でていた(「音楽法要」)。またお経には抑揚音階のある「声明(しょうみょう)」もある。
各地の浄土宗寺院で鎮西上人以来、このような音楽法要が催され、これが寺院雅楽となった。

賢順の生涯

【生い立ち】

【大本山善導寺に僧として入る。】

【英彦山に避難】

英彦山は大本山善導寺と関係が深く、修験者たちに伝統の音楽があった。
また、日田に逃れ潜んだ平家の女官たちの間に宮廷の音楽が伝承されていた。

【宗麟(義鎮)の招きで大分府内に入る。】

  • ★禁庭、「筑紫懸」の号を賜る(西国では賢順懸)
  • ★大伴宗麟は賢順に妻を娶らせ、田地を与える。
    (26~27才の永禄5年(1562)頃。姓を「諸田」とし、還俗する)

大友 宗麟 本名:義鎮(よししげ)・別名:休庵宗麟

  • 1550年、宗麟の異母弟・大友塩市丸を後継者に立てようとした父・義鑑らが暗殺された「二階崩れの変」で家督を継ぎ、第21代当主となる。
  • 1551年、スペイン人宣教師、フランシスコ・ザビエルをに豊後に迎えた(日本での最終布教地)
  • 1559年、室町幕府の任命で九州探題になる。
  • 1570年、肥前(今の佐賀・長崎県)の龍造寺に敗れ(今山の戦い)、長男・義統に家督を譲って隠居。
  • 1577年、キリスト教の洗礼を受け「ドン・フランシスコ」と名乗る。
  • 以降、日向国で神社仏閣を徹底的に破壊するなどの行為が、領地内の武士らの離反・反乱を招いた。

参考:大分市の歴史と文化 府内に息づく魅惑の世界 大友宗麟

【肥前・南里「正定寺」に入る (現・川添町)】(浄土宗大本山・善導寺に対し、肥前の本山ともいわれる)

正定寺(佐賀市川副町南里1301−2)には賢順に関する物は何も残らず。

*)正定寺で、2人の僧(法水と玄恕)は賢順から筑紫箏を伝承する。
◎玄恕は後に諫早・慶巌寺の4代目住職となり、玄恕から3代伝承者・徳応に引き継がれる。
晩年の玄恕は訪れた検校(後の八橋検校城秀)に筑紫箏を伝授した。
◎法水は還俗して江戸で箏糸商を営み、
そこで巡り会った上永検校(後の八橋検校城秀)に筑紫箏の手ほどきをし、玄恕を紹介した。

近くの諸富付近は多くのクリークの中、小さな集落ごとにお寺があり・・・寺(多聞院)の墓地に、賢順一族との関連は不明だが諸田姓の立派なお墓が複数あるも、手掛りになりそうなものには出会えず。

【肥前多久「梶峯城」に入る】(元亀2年、38才の時、龍造寺長信公の招きで)

多久安順(長信公の長子)の妻は鍋島直茂長女「千鶴姫」で、賢順は城近くに住み、千鶴姫に筑紫箏を伝授。
嗣子がなく竜造寺家は絶えたが鍋島家から養子を迎え、筑紫箏は鍋島家にも受け継がれた。
終生、隠遁の生活を貫き通したという。享年90歳

福岡教育大学講師・宮原千津子女史のみが筑紫箏の演奏者とされている。

毎年7月13日の命日に「諸田賢順を偲ぶ会」が開催されている。
専称寺:多久市多久町東の原(お問合わせ 0952-75-2440)

賢順の墓:小城郡北多久町小侍(現在の多久市北多久町小侍)

mini賢順の墓(多久市北多久町小侍)

参考資料:『「諸田賢順」(筑紫箏の始祖)』著者:山崎拓治
「賢順と久留米」:記念全国箏曲祭実行委員会発行
協力:浄土宗大本山善導寺

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