近代箏曲の時代 賢順の門下である玄恕(1606-1649)は京都へ行き、知恩院の八の宮良純法親王に筑紫箏を教える。玄恕は、後に長崎県諫早市の慶巌寺の住職となる。
同じく賢順に師事した法水は、京都へ行き、後(寛永年間)に江戸へ出、還俗して琴糸商となり、八橋検校に筑紫箏を伝授する。
江戸時代、慶長13年(1608)奥州岩城(福島県いわき市)に生まれる。 三味線の演奏家として世に出た八橋検校は寛永16年(1639)、盲人の最高位「検校」となり、八橋検校を名乗る。
さらに法水から筑紫箏を習う。 筑紫箏曲は楽譜などの文献、昔の伝承に最近の録音を合わせて80曲ほどあるなかで、法水が検校に教えた筑紫箏の曲は、賢順作といわれる富貴、春風、青柳、梅枝などの詠曲10曲と考えられている。
箏曲八橋流は慶安年間(1648-51)頃に成立。 検校はそれまで、貴族、武士、僧侶などの音楽であった箏の音楽を改変して、作曲、演奏のプロである盲人音楽家の手により、芸術音楽へと発展させた。(彼が近世箏曲の祖といわれるゆえん)
また、筑紫箏の継承のみにとどまらず、歌詞を添削したり、組み合わせを変えたりして、洗練された箏歌を作り出し、平調子という、新しい音階を取り入れた。平調子音階は、江戸時代のすべての音楽の基本となる。
また箏組歌と並んで段物という器楽曲が生まれる。八橋作曲と断言できないものの「六段の調」はその一つとされる。 八橋検校は貞享2年(1685)78歳で没し、京都黒谷の金戒光明寺に葬られる。
元禄8年(1695)八橋の弟子北島検校の門下、生田検校(1656-1715)が40歳のときに 、生田流を名乗る。それ以前の箏曲と三味線の曲とはあくまでも別の音楽で、両方を演奏する検校たちは多くとも、箏曲に三味線は加わらず、三味線の曲に箏は加わらなかった。
生田は2つの合奏を始め、箏の奏法、調弦、箏爪の形などを改良した。 元禄時代の京都の箏曲界を代表した
文化年間、江戸で盲人の天才少年【後の山田検校(1757-1817)】が生田流安村検校の流れをくむ医師、山田松黒の門に入り、それまでの箏曲は江戸人に合わないと、当時江戸で流行していた歌本位の三味線音楽を取入れ、浄瑠璃的な雰囲気の新しい箏曲の世界を作り出す。彼は21歳で「江の島の曲」を作曲、組歌「初音の曲」などの作品を発表した。
幕末には、光崎検校らが箏組歌の精神(八橋検校)に帰ろうとする純箏曲の復興時代を迎えた。 大正時代には、西洋音楽と邦楽を組み合わせた新日本音楽運動により、宮城道雄(1894-1956)が現代音楽に至る大きな足跡を残した。
参考資料:『「諸田賢順」(筑紫箏の始祖)』著者:山崎拓治
「賢順と久留米」賢順記念全国箏曲祭実行委員会発行
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