【城島の酒産地形成の条件】
城島町は灘、伏見、サイジョウと並び全国的に有名。
<城島で酒造りが盛んになった三条件>
- 1.原料・・・母なる筑後川の水(酒造用水・酒造仕込や桶を洗う雑用水)・筑後平野の米(豊富)
- 2.技術・・・城島の酒造家は、明治時代は非常に先見性があり、事業を盛んにやっていた。
- 城島杜氏の非常に勤勉的な技術(豪農が多く、冬の農閑期の副業として労働力もあった。
- 3.物を運ぶ交通の便・・筑後川を利用し、有明海、長崎、島原、船便で東京まで運べることで酒産地として形成される。
【時代区分】
- 1.有馬藩時代・酒造業の起こり
- 文献によると城島で酒造業が起こったのは、江戸中期頃(250年ほど前)
延享2年(1745年)に富安氏、花の露の先祖が創業。
文政12年(1829年)江頭太郎衛門、ヒオナの先祖。 - 文献によると城島で酒造業が起こったのは、江戸中期頃(250年ほど前)
延享2年(1745年)に富安氏、花の露の先祖が創業。
文政12年(1829年)江頭太郎衛門、ヒオナの先祖。 - 嘉永3年(1850年)首藤重之進。有薫の先祖 (参考)嘉永6年:ペルーの来航)
*)酒株制度:米は食料なので、飢饉などにそなえて、なるたけ酒は造らせない。お酒を飲むと農民の人が働かなくなるということで、禁止令的な制度があり、当時の酒造家は有馬藩より酒株(一種の免許制度)をもらい、濁り酒を約百石くらい造っていた。また、筑後各藩は他藩に米を流すことを禁止していた。
- 2.明治初期
- 《城島の酒を改良》 明治4年に免許鑑札制度ができたが、明治初年、新政府の富国強兵の国策により酒造石高は急増し、400石位造っていた。
明治8年、首藤有紀は販路拡張のために長崎へ出て、当時流通していた灘、堺の酒に比べて色、味、香りが劣ることに気づいて帰り、同業者と酒造法の改良・研究に没頭した。(城島の酒が向上する大きなきっかけとなった)明治9年の記録では、九場、九軒の酒屋があり、醸造高は約3000石。
- 3.明治10年〜20年頃
- 《西南の役で好景気》 明治12年の西南の役をきっかけに城島の酒が飛躍的に、企業的に力を付けた。
南九州は戦火に包まれ、北九州は政府軍の基地となり、酒の需要も一段と急増した。(勝ち戦、祝い酒。志気高揚のため)
熊本城の攻防をかけた官軍と薩軍との死闘の陰に、城島の酒が、どんどん造られ、売られることとなる。官軍は四斗樽の酒を「飲め、飲め」と飲んで、田原坂へ突撃して薩軍と戦った。皮肉なことに戦争が酒の需要に、そして後にパニックが来て悲劇を生むことになる。
西南の役後、東京は好景気だが、城島は不景気になる。明治14年に首藤有紀は酒造組合をつくり同業者二名と城島の酒を携えて、東京に進出した。
しかし、そこで愛用されてた灘、堺の酒は美しい菰包みに包まれ、用材は薫り高い吉野杉で樽を作り、酒質も比べ物にならなかった。
いろいろ苦心して、明治19年、灘から、杜氏、麹付け、元廻り(三役)を城島に招き、全蔵で新醸造法を採用したが、その結果は、酒が全部腐ってしまい倒産する所も出た。 - 《軟水仕込みの酒造法の開発》 灘の宮水は非常に成分の多い硬水(硬度が約8度)。それに比べて城島の酒は、筑後川の水を使うので軟水(硬度2度)。そのため同じ造り方をしても酵母が発酵しない。・・・酒が腐ってしまうことになる。それ以後、各業者、城島杜氏は、筑後川の軟水仕込み、川の水を利用した酒造方法とを自分自身で編み出した。
- 4.明治20年〜40年
- 《日清戦争でパニック》明治27年の日清戦争をきっかけに酒の需要が非常に高まり、値段が暴騰。これをみて酒造業に参入する業者が増えたため、業者数が最も多い時(三潴郡で大川含み)85場で、52000石造っていた。しかし戦後はパニックになり、明治35年には業者は半減し、量も36000石になる。
- 《酒質向上》
明治25年に大川税務署ができる。(技術屋、技師を配して調査、指導、監督をする)
明治28年に三潴酒造研究所を創立(資本金が3200円)後に福岡の醸造組合と合併。
明治36年に国内勧業博覧会開催。
明治37年に日露戦争が起こり、国内が非常に好況になったが、今度はパニックはある程度免れることができた。 明治39年に、大蔵省の醸造試験所で「灘および城島酒造法調査書」という技術の本が出て、有薫の銘柄の清酒、菊正宗、福娘と共に紹介され一応業界の注目を浴びて順調になる。
明治40年には全国品評会がおこなわれ、城島より3人が選ばれ、全国的にレベルが高くなり、名醸造地として製造量は九州一となる。 - 《大川馬車軌道》
明治四十年に、大川馬車軌道(大川−久留米間)開通。後に大川鉄道となり、最後には西鉄に合併される。
ドイツ製のポッポ汽車で、株主は全部、酒屋でした。大口の酒は船で移送するが小口は大川鉄道で運んでいました。この汽車は西鉄に合併され到津に置いてあったたが、現在は三潴町が塚崎に設置。
- 5.大正時代
- 《販路の拡大》
大正時代、交通が盛んになり、販路は拡大し、九州各地に進出しました。特に朝鮮、満州各地には支店を作りました。当時、朝鮮や満州に進出すると税金を還付してくれる「戻り税」というのがありました。一種の輸出促進です。
そのために城島町は非常に造石量が多くなり、城島全体で77000石位を造っています。
しかし、第一次大戦後のパニックで、酒造業者が過半数を出資していた三潴銀行が閉鎖になるなど、苦しいこともありました。しかし、この頃は城島の品評会で通れば全国品評会に出しても大丈夫という程、非常に高い評価を受けていました。
- 《水道》大正10年に酒造者の数は46場です。仕込み水、雑用水は、大正10年に城島簡易水道協同組合を組織して、草場という所から、ポンプアップして浄水場で濾過をして配っていましたが、大正14年に、城島水道株式会社となりました。
しかし、だんだん川の水が汚くなり、昭和10年には久留米の上水道を頂いて 約8q引っ張ります。
最初は酒屋だけ使っていましたが、ご近所の皆様に配水して家庭用が70%になりました。
値上げや設備投資をするにも、水道の事業は自由にできず、許可がいりますが、全国唯一の民間の水道会社でした。(前には野田醤油がしていました。)
昭和52年、町営水道と合併し、今は久留米の広域水道と一緒になっています。
エピソードとしては、メーターをつけると高くつくので、最初(大正の初め頃)所帯人数、牛や馬、その頭数で料金を計算したということが記録に残っています。
- 6.昭和・平成の時代
- 《第二次大戦》
昭和初期の不況を脱出すると業界も次第に安定し、造石数も増加しますが、昭和12年、シナ事変、ついで第二次欧州大戦に突入します。
原料は割り当て、販売も配給制度となり、軍需工場に転換する業者も出てきました。
昭和17年の企業整理で、全国的に業者数を半分とし、造石量を半減します。また城島の造石権を強制的に都市部に取られるというようなこともあり、昭和19年に34工場あったのが14工場となり、廃業が多数出ました。昭和12年の業者数は36です。
- 《終戦後の変遷》
平和が到来し、城島の酒造も技術革新で、古い蔵の中にも大型のタンクが立ち並び、最新機械を導入しました。
仕込みの操作も機械化が進み、いままでの泊まり込み作業が、通勤制の8時間労働に変わります。 この、規模の大型化、機械化、通勤作業は全国からも非常に注目されます。立案者のサネフジヒサミツ技師の功績は非常に大でした。
また吟醸酒の製造も盛んになり、城島の業者は福岡国税局鑑評会に常に上位入賞しました。
城島の技術は非常に優れていましたが、一番のお得意様だった三池炭坑、筑邦炭坑、唐津炭坑が、エネルギー革命で、閉山に追い込まれました。 北九州工業地帯の地盤沈下で、そこに二級酒、大衆酒を売っていたので消費地を失いました。
高級酒では灘、伏見の大手との競争に非常な苦戦を強いられています。
しかし近年には吟醸酒、純米酒、本醸造酒、生酒と、非常に多様化を図り、時代のニーズにあった製品を出して、地酒ブームを巻き起こすなど、日本酒一筋に非常に努力をしています。
漫画の「夏子の酒」は新潟県の酒が見本といわれます。また「蔵」という宮尾登美子さんの小説で、地酒が非常に注目を浴びています。
しかし、流通の一大変革と価格破壊の大きな波が次々と押し寄せており、城島はどのような運命を辿るか非常に難しい問題です。
こういう時だからこそ、温故知新、明治時代の我々の先祖の先見性を学んで、もう一度考え直す必要があります。
7.おわりに
- 酒造家の地域社会への功績は結構大きなものでした。例えば富安さんは三潴銀行、大川鉄道、三潴中学の土地を寄贈されました。城島水道株式会社、清力美術館、酒資料館、奨学資金等もありますが、残念ながら、現存しているのは三潴高校と酒資料館だけです。
- おことわり) 数年前、当時「有薫酒造」社長、首藤譲氏が「城島の酒」と題して久留米教育クラブで講演されたものを、有薫酒造のご了解を頂き、要約を掲載させていただきました。