矢留大神宮・六騎神社

福岡県柳川市矢留町

矢留大神宮六騎神社

左:矢留大神宮 右:六騎神社

由緒

1185年壇ノ浦で敗れた平家の落人は、肥後路へ逃避しました。しかし、源氏の追及は厳しく、落武者6名(難波善長、加藤権内、浦川天ヶ左衛門、鳴神藤助、是永多七、若宮兵七)は、柳川沖端に移り住み漁業をはじめたといわれています。当時の人々は平家の身分の高い人たちとして、6名の騎馬武者の意味で「六騎」と称していました。

立花宗茂公が柳川城に復帰すると、有明海の「漁業権」を得て活動するようになりました。

こうして「六騎」が沖端漁業の基礎を築いたので漁業者のことを「六騎」と呼ぶようになりました。

また産土神(氏神)をまつることに気づいた「六騎」の一人は伊勢に参り、半鏡を授かった。するともまもなく、この矢留の地から半鏡が発見されたので、伊勢大神宮から授かった半鏡とつなぎ合せてみると、不思議なことに一致し、これは大神宮様のお授けになったものであるとして、天照大神を奉祀したのが矢留大神宮です。時は1395年11月15日でした。

毎年11月15日、矢留大神宮、六騎神社の大祭が行われます。

In 1185, the Heike clan was defeated in the battle of Dannoura, and some of them escaped in the direction toward Higo (Kumamoto). The Genji clan, however, did not relax their pursuit, so 6 samurais of the Heike, Zencho Namba, Tonai Kato, Amagazaemon Urakawa, Tosuke Narukami, Tashichi Korenaga, and Heishichi Wakamiya had to move to Okinohata, Yanagwa and made their livimg by fishing. People in Yanagawa, at that time, called these noble samurais Rokkyu, which means 6 samurais on horses, When the lord, Muneshige Tachibana, came back to the Yanagawa castle, the Rokkyu got his permission and started a fishery in the Ariake sea and established the foundation of the Okinohata fisherv. Since then, fishermen are sometaimes called Rokkyu. Once one of the Rokkyu thought that they should worship the native god, and he went to the Ise Shrine and was given a semicircular mirror. after that, another semicircular mirror was found in Yadomi, and mysteriously, these two mirrors mede a perfect round miror. They thought of the mirror as a gift from the god of Jingu, and in 1395, November 15, the Yadomi Shrine was dedicated to the god of Amaterasu. Now, on that day, a festival is annually held at the Yadomi and the Rokkyu Shrine.

境内の説明板より転載

六騎の由来

境内別の解説板(風雪で塗料が落ち、判読しにくい箇所は誤読している可能性があります)


源平の戦いと平家の末路のあわれさは、日本史上の最大のロマンスとして文学に演劇にテレビに今尚心うつ哀話であるが、矢留の六騎には漁業関係の恩人としての輝かしい歴史がのこされた。

敗戦につぐ敗戦の平家は、土豪僧徒の支援を受けて(要川)山川村附近で最後の一戦を試みたが勝算なく、
肥後の五箇荘にのがれなし人跡未踏の深山に身を隠し、草木に心細くも虫の声を慕い窓打雨音の繁き淋しき山間の生活に耐えかね、そして稗つき節の哀話もあるように、源氏方の追及の手が厳しく矢留部落に移住してきたもので、
落武者六騎の隊長 難波長(平益信)、加藤藤内(平正勝)、是長多七(平政直)、浦川天ヶ左衛門(平高矩)、鳴神藤助(平親英)、若宮兵七(平清貞)、六人の侍、いづれも平家の公達で高い身分達であり、之を平家の六騎と称す。

当時は戦国時代日本国中が麻のように乱れ、特に九州地方の海岸は海賊の被害が甚だしく有明海岸にも来襲してきた。土地の人々は海賊の矢を防ぐため板や莚を海岸に張り巡らせて矢を留めた。
それで矢留村と名がついた始まりといわれる。

ある日、立花宗茂公が柳河城に復帰され泉州棚倉から柳河十二万石領地に帰られたこと、初めて御出猟に出かけられた時千代の松原(今の沖端字片原町事なり)で沿岸を荒らして困っていたのを平家の六人の残党の勇士が切って、
住民の憂を絶ったことがあった。その時6人の残党の勇士を引見され、
お城までお供をして勇武をたたえられ銀五百目を拝領、
そして殿から何かのぞみはないかといわれ、有明海の羽瀬さし、(今の漁業権にあたるか)を願った処、
立斉公はすぐ許可され、これが矢留羽瀬漁業の始めかといわれている。

「六騎の一騎さばき」という言葉があるが、
これは5人海に出て魚を採り、一人がもっぱら陸上の売りさばきの役目をしたと伝えられている。
これは源氏の詮議が厳しかったので、なるべく内輪に仕事をしていた頃できた言葉と思われる。
現在のような大部分の住民が漁業に従属するよう盛大になったのである。

今尚由緒ある790年余に互る由緒を守り家を伝え同じ目的のもとに辛苦を共にした子孫の人々が現在し、
又これを実証できる多くの事蹟が残されている時、人之を尊敬して敢えてその名をいわず六騎と称す。
後生地方にて漁業者を指して六騎(ろっきゅう)と云うはこれに起因せりという。

矢留大神宮

平家の紋章 丸に上羽蝶貞応年中(源頼朝の時貞応6年より明治28年迄727年)六騎の浪士、当村に居住し産神なきを嘆き、朝夕心魂を砕き産神を得宮殿を造営せんことを願い、ある夜不思議霊夢を蒙り地下に半鐘あり、之を掘出し以って奉祀すべしと。依て地を掘ること丈余にして果たして半鐘を得た故に、之を御神体となし宮殿を創建したり。

一説には難波、加藤両士急ぎ伊勢に上り御師の人にしかじかの由を語り神鏡を拝受して御神体となすと 応永2年11月15日天照皇大神を奉祀し鎮座祭を挙ぐが加藤藤内(今木下宮師)先祖祭主となり、それより毎年11月15日大祭を行う。
又明治30年10月17日3日間、御鎮座五百年大祭と の本社建立の功労を頌し、大祭執行と同時に六騎の霊を祀り域内にある六騎神社は沖端村村長三田村外有志一同にてご造営、毎年11月15日大神宮大祭の時に六騎神社の大祭も共に行われる)

昭和52年10月吉日 平益信 直系 難波善長 書


お手洗い場

このお手洗い場の創建は今より580年余前、応永時代、平家の落人六騎の方々が天照皇大神を御祭神として当時辛苦を共にして大神宮を御造営した時に出来たお手洗い場にして両側の板張に脱衣して川の清水にて身を清め大祭日には上下を着て早朝大神宮に参拝したお手洗い場であります。

長い間に修復して現在保存されている貴重な史跡です。

昭和54年12月吉日 平益信 直系 難波善長 書

地名「矢留」の由来

(境内に小さな観音堂があり、「矢留の観音菩薩の由来」が表示されています。)


その昔この地に端地山竹林寺という真言宗の大伽藍あり。旧記に創建の年月未詳最も振古の寺院にして宗派詳ならず。今は太神宮社地または民家の敷地となる。
奈良時代、僧の行基が自作の観音菩薩を大同二年(西暦807年)、この竹林寺に置く。貞応の頃までは寺領あり。

永禄年間竜造寺氏のため兵火に罹り旧記什物供に灰燼となる。天正年間沖端人民より再興す。
然るに文政十一年暴風のため倒潰す。その後小宇を建立し今尚在す。
この安置の観音像は山門郡本吉の清水寺の観音像と京都の清水寺観音像と共に三霊像の一体にして香歓木にて調刻せし同木同作なりという。

往時海賊掠国内政矢如雨為征之以板及莚之類張此浜留矢賊成掠奪而退云々。

(返り点など、HP上での表記法を知らないので白文で表記しました。)

大意は「略奪に来た海賊の矢を防ぐため、海岸に板や莚を張ってこれを留めた」⇒矢留
依て矢留を以て村名となす。

又平家の浪人六騎、此の地に来り氏神(大神宮)を祭らざる以前は此の観音像を以て氏神となせしと云う。

旧柳川藩誌

昭和53年11月5日 矢留本町宮籠観音講中


静かな域内で、書かれた説明を読み、この地の歴史、祖先に対する思いの深さを感じ、背筋が伸びました。

home