三柱神社拝殿
縣社三柱神社

鎮座地:福岡県柳川市三橋町高畑323-1

三柱神社は文政9年(1826)10代藩主鑑賢公の創建されました。神域は約62,000㎡の広大な高畑公園となっており、旧藩時代馬場として使用されていた長い参道には、中央に 松並木、左右に吉野桜を配し、参道の北端に御影石の大鳥居、左に心字の池があり、うっそうとした楠の巨樹の奥に楼門が建っています。

毎年10月9日~11日の3日間行われる三柱神社秋季大祭(おにぎえ)には、県指定無形文化財「どろつくどん」や踊り山車が繰り出され、夜遅くまで賑わいます。

Mihashira Shrine was built by 10th Lord, Akikata Tachibana in 1826. It was dedicated to three Persons, Muneshige Tachibana who estabulished the Yanagawa clan, Muenshige's wife Ginchiyo-hime, and her father, Dousetu Bekki. The shrine's name, Mihashira, meaning three Pillars, represents these three heroes.

Today, Takahatake Park the neighbouhood of the shrine is a large park of 62,000 sq.m. There is a long approach to the shrine with a row of pine trees and cherry on both sides. This used to be the riding grounds during the Tachibana era. At the northern part of the approach, there is a granite torii gate and a pond, and in the depths of the forest, there is the main gate to the shrine.

The main gate is modeled after Tohshohgu's gate in Nikko, and the corridor was built to imitate Itsukushima shrine in Hiroshima.

THe automn festival which is Onigie is held every October, people enjoy "Dorotsukudon" designated as an intangible cultural asset it floats until at night.

「祭神」

配祀

立花鑑通公(七代藩主)・立花鑑壽公(八代藩主)
・立花鑑賢公(九代藩主)・青柳(道雪室)・高橋鎮種公(紹運・紹雲)

由緒

本神社は、柳川藩初代藩主(立花宗茂公)、岳父(戸次道雪公)、宗茂室(誾千代姫君)の三神を祀ったことから、三柱神社と名付けられる。

天明3(1783)年、7代藩主:立花鑑通公が柳川城内三の丸、長久寺境内に社を建立し、道雪公を奉祀したのを起源とし、文政3(1820)年、坂本村日吉神社に遷座され、唯一の宮と称し、後梅岳社と改称し、更に三柱宮と改称す。

文政8(1825)年、9代藩主(立花鑑賢公)により、現在の地6町歩余りを境内として社殿の建設を計画し、翌9(1826)年旧8月16日に御神霊を遷座された。

柳川をはじめ、地方の尊崇はもとより、その御神威御神徳は年々輝きを増すと共に武神軍神、水利・干拓・開田・郷土繁栄の守護神として、近年では御功績を以って必勝・就職・再就職・復活の社として、遠方を問わず多くの方に崇敬されている。

社殿

雄大荘厳な風格の社殿と緑陰広がる境内は、水郷柳川の名所の一つとして親しまれている。

工事の着工に際し、大工棟梁を日光東照宮・厳島神社に派遣し、楼門は日光東照宮の陽明門を模り、回廊は厳島神社を模したものと言われている。当時、最新の宮であったため「御新宮」と呼ばれていた。

参道は、直線三百米を有し、春の大祭に於いて流鏑馬が奉納されている。

現在、平成17年の放火により、拝殿(平成20年12月竣工)・唐門・楼門・回廊を全焼し、復興中である。

資料:三柱神社の由緒書と境内にある説明版から抜粋

戸次道雪と高橋紹運の二人は、豊後大友宗麟の家臣で、道雪は立花山城、紹雲が岩屋城、紹雲の子統増が宝満城を守っていた。男子のなかった道雪は紹運の長男宗茂を婿養子にして立花姓を継がせた)
*)戸次道雪は北野町赤司城(現存せず)にいたこともあるようで、北上してくる島津軍を相手に福岡県内の各地で転戦しでいます。

1586年(天正14年)7月、島津義久の軍勢(20000人~50000人)を迎えて岩屋城に籠城した高橋紹運以下763名は奮戦の後討死、統増は降伏して宝満城を開城する。

この時、立花宗茂は道雪の居城・立花山城(立花山は新宮町・久山町・福岡市東区の境にある)で島津軍に対抗したが、豊臣軍20万が九州に上陸したため島津軍は撤退した。(関連) 岩屋城(高橋紹運が玉砕)

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