八女福島燈籠人形と松延貫嵐

寛文元年(1661)9月18日、庄屋国武理右衛門尉を代表とする福島町民が、土橋八幡宮から勧請して福島八幡宮を仮社殿に開元する。

(*)この開元縁起が放生会の奉納行事燈籠人形に反映していると考えられる。)

*)源義家が八幡太郎を名乗り、源頼朝が鶴岡八幡宮を開元して以来、武士は争って八幡神に帰依するようになった。

もしも福島城が廃城にならず、武士の居城であり続けたら八幡宮への信仰形態が変化した可能性があるが、
村人たちは、本来の現世利益を願う「八幡さん」として、豊作・安産・家内安全を願うために、土橋八幡宮からの分霊を勧請した。

八幡宮社殿

福島八幡宮の拝殿

松延氏

松延四郎兵衛

松延貫嵐

松延甚左衛門種茂(四郎兵衛の5代目子孫)

貫嵐の句碑

くずれどつもれどはるのみゆきかな

豊竹座が出火全焼、人形浄瑠璃が衰退期にかかっていた・・・活躍の場を失った彼は

天保15年(1844)春、藩主頼徳が死亡。6月に有馬頼永が後を継ぎ、8月末、大倹令を発し、藩財政の立て直しを計る。

(この頃には現在の屋台とほぼ同じものが出来上がったらしい)

○幕末・明治期の灯籠人形の作詞家たち(=貫嵐の俳風を継ぐ俳人たち)

○貫嵐がもたらした上方文化は八女地方の職人を刺激して高度のからくり人形を生んだだけでなく、経済的な奉納慣習(当番町制)を樹立した。

田中久重のからくり人形

《屋台》 江戸時代末期には9~10台、明治以降は8~9台あったが、当番にあたる2つの氏子町がそれぞれ屋台を使用したので、組み立て地は2か所あった。(大屋台:拝殿下段の広場・小屋台:拝殿前の広場・・・・現在は1台だけが拝殿下段の広場に組立てる)地鎮祭の後、上演3週間前の9月1日頃から組み立てが始まり、約1週間で完成。

*)当番となった氏子の町が祭りを奉納していたが、現在は保存会によって奉納されている。

《燈籠人形》 当初は竹ひごで人形の概形を作り、外から紙を貼り(秋田のねぶたのような)、中に燈火をともして町内に飾ったようだが、からくり人形が採用されてからは灯籠は舞台照明として使用されるだけとなった。

資料:杉山洋著「八女福島八幡宮燈籠人形夜話」

八女市発行・八女福島燈籠人形パンフレット

改築記念碑
境内の木陰、記念碑

国指定重要無形民俗文化財・八女福島の燈籠人形の屋台収蔵庫改築記念碑 この収蔵庫は八女福島の燈籠人形の屋台を保管している。

屋台は最盛期には氏子町内別に十数台あったが、現存するのは中宮野町西紺屋町氏子によって保存された天保年間に完成した二台のみである。この地にはその二台を保管した屋台小屋が約180年前から建てられていたが、老朽化したため平成二年(1989)に八女市によって改築された。

燈籠人形の起りは延享元年(1744)に人形燈籠を放生会に奉納したのが始まりとされている

公演のときは釘を使わない三層建ての屋台を蔵出し組立て、その中で囃子や唄に合わせて人形を踊らせる。 八女の風土に生れた民俗芸能を永久に保存伝承するためにこの碑を建立した。 平成三年三月吉日

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