玉藻之前
(たまものまえ)

2013年9月21・22・23日


開演前の屋台

重要無形民俗文化財「八女福島の燈籠人形」について

燈籠人形は延享元年(1744年)に八幡宮放生会に奉納された人形の燈籠が始まりで、当時はいたって簡素な設備をなし燈火を点じ飾人形を陳列奉納したものであったが、明和9年(1772)初めて人形が動くようになった。(飾付人形から棒、糸によるカラクリ仕掛けの人形を動かすようになった)。

燈籠人形が郷土の民俗芸能として高く評価されるのは古い伝統だけではない。豪華な二階建の屋台が一本の釘や鎹(かすがい)も使わないで自由に組立て解体ができるようになっていて、この屋台の中で囃子にあわせて人形をあやつるもので、糸や人形遣いの姿は見えないのが特徴であり、全国に例がないとされている。

屋台が出現したのは明和年間(1722年頃)といわれ、現在のようになったのは天保年間(1835年頃)である。

この屋台の二階には囃子方15人、人形遣いは遣いが東西それぞれ6人、計12人、下遣いは人形一体に6人を配し、その他背景係等総勢40人から50人が出演、囃子方の地唄につれて人形が踊るのである。
屋台の壮麗美と人形が舞うカラクリの精巧さは、まさに優雅で嘆賞久しうするものである。

八女福島の燈籠人形保存会

 
  • 関節部分は鯨の髭をバネとして利用しているとのことです。
  • 戦前までは氏子町11町内がそれぞれ屋台を持っていたのが、当番制で奉納上演するようになり、現在では福島校区23町内で作られた保存会を結成して受け継がれています。
  • 屋台は高さ8m・間口14m・奥行きの6m、総漆塗り・組立式で釘や鎹(かすがい)を使用せず。(これらの技術がこの地の伝統的特産物である仏壇仏具と関係していると思われます。


1回の上演時間は30分ほどです。

「送り渡し」:橋は左右から半分づつ出ている。
玉藻之前(人形)は右から橋を渡り、左側へ移動。
(右側の下遣いから左側の下遣いにバトンタッチされます。

  • 横遣い人形:玉藻之前・その侍女・・・・・・・・・・(舞台の左右からの9本長い棒で操作)
  • 下遣い人形:玄翁和尚・宮中童子・・・・・・・・・・(舞台下から操作)
  • 飾り人形:陰陽博士 阿部泰成・侍臣 三浦上総介・・・(動かない)

「衣装の早代わり」:縫製の工夫で、一瞬で人形の衣装が変わります

「背景」:背景の幕が場面変換に伴って次々に落とされます(全六景)

玉藻之前
その侍女
宮中童子
玄翁和尚 正体を現した狐

解説

平安時代後期、鳥羽上皇に仕える玉藻之前という才媛の美女がいて、院の寵愛を受けていたが実は尾が9つの白面金毛の狐の化身だったという。 あるとき、清涼殿で催された管弦楽の折に不思議な出来事が起こったのをきっかけに陰陽博士阿部泰成に正体を見破られ、遠くの下野国那須野の原に逃げ去るが、追討の三浦上総介に討ち取られます。 しかし、狐の怨霊は殺生石となって近くを通る人畜に危害を加えるようになりました。その後、100年ほど後の御深草帝の時代に高徳の僧玄翁和尚が御仏の力をかりて杖で殺生石を三度叩くと、さしもの悪鬼も昇天成仏したという那須町地方の伝説からとったものです。(八女の詩人 樋口平舎作)

当日配布された解説より引用しました。

気になったことですが、上演時間になって地元の年寄りが孫を連れて来て「前に入れてもらって見なさい。」子供は無言で僕の体をどんどん押してきます。
あまりに動くので年寄りに苦情を言っても無言(子供にそれを見せている!!)。年寄りなら自分が社会性を身につけて見本を示すべきです。おまけに、その年寄りの同伴者に対して上演時間のほとんどを八女福島人形の解説にあててしまいました。大きな話し声はどうしても耳に入るし、囃し方の言葉などの難しい節回しや言葉、舞台の演技などに集中できませんでした。
遠方から楽しみにして来る人たちに対してとても失礼だと思います。また、準備から最終の片付けまで貴重な時間と労力を提供しておられる方たちのことを思えば、もっと考えてほしいと思います。
年寄りはもうどうでも良いのですが、大切な孫がそれを手本にしていますよ。

神社前では北九州から来たという10人の演技
小さな子供を見ていたら太鼓は叩く、道具の移動をしたり、真剣な表情が印象的でした。
演者の熱意が伝わり、その場を立ち去りがたい気持ちになり、境内での嫌な気分を変えることができました。


近くの横町町家交流館:ここも多くの人が出入りして展示物を見ていました。
日差しが暑いほどの好天気で、人出も多く、市役所の駐車場もほとんど満車でした。

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