良成親王陵墓

良成親王は、第97代後村上天皇の第6皇子で正平22年(1367)わずか5、6歳にして、叔父の征西将軍懐良親王の留守居役として大宰府へ下向されてきた。

それから8年後の天授元年(1375)14歳の頃、懐良親王から将軍職を継がれ、後征西将軍となられ、菊池氏一族と南朝再興のため一時勢力を拡げられたが、菊池城が落城してからは、居城の染土城をあとにされ、深山の「嶽の御所」に移られた。
その後、八代の奥にある「高田の御所」に移られ、元中8年に五條頼治を頼られ、天険である、この大杣の地に在所された。
南北朝統一後も南朝再興をはかられたが、元中12年、御齢35歳ぐらいで、この地「大杣御所」にて、再興の願い虚しく、亡くなられた。

明治11年5月宮内庁よりこの地を御墓所に認定された。

平成11年3月
矢部村

*)昔、小さな子どもには「ある種の力」が備わっていると考えられていて幼い親王達が各地に派遣されたようです。


後征西将軍良成親王様を偲び奉りて

良成親王は第97代後村上天皇第6皇子にましまして正平22年(1367)父帝の命により御年僅か5、6才にして九州に御下向になり天授元年(1375)後征西将軍として将軍職を継承されました。

当時九州は既に南朝劣勢の時にして叔父君たる征西将軍懐良親王と共に官軍を鼓舞、皇威挽回の為に南征北伐躬ら陣頭に馬を進めて敵の心胆を寒からしめたその御勇武はまことに鎮西勤王史を飾る掉尾の御壮挙であります。

元中9年(1392)南北両朝の合一後も後征西軍の宮は心から南朝の再興をはかられましたがついに事成就し給はず、ここ大杣の御所にて御齢35才の年頃にて御薨去あらせられました。

明治11年5月宮内省この地を親王の御墓御治定になり毎年10月8日墓前にて祭典を厳修公卿唄を奉唄して宮様の霊を御慰め申し上げています。

昭和52年2月 矢部村
現地説明板

お茶の千代乃園」に10月8日の墓前祭の様子がUPされています。


陵墓は山の傾斜地にあり、石垣の下は切り拓かれ大杣公園になっています。(右方、坂道の傍に釈迦堂)

中世(南北朝1333~戦国1570頃)の矢部は、東の大分大友氏と西の南朝方や大内氏の勢力がぶつかる場所で、五条氏やその一族の武将が守りにつき、そのために中世文化が栄えていました。後年、この堂に旅の人が何度も泊まりました。

夜がふけると武士が戦うような剣の音や木をたおしたり竹を割ったりするような音が一晩中続き眠れなかったといいますが、地元の人が堂に入るとぴたりとおさまったそうです。

村人は忠臣たちが良成親王をお守りしているのだとか、親王無念のさけびであろうかと言い伝えています。

懐良親王の墓所について

いまでも諸説があります。

  1. 千光寺(山本町柳坂)は合戦で負傷した親王が運ばれた所とする説。しかし、後に親王に関する記述文書が残っているので、ここで亡くなったとは考えられないそうです。
  2. ●八代(宮内庁で公式に認められている場所)
  3. ●星野村玉水山 大円寺(ここが最も信憑性が高いとのこと)

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