桑取藪

八女教学の祖 江崎済先生「開塾の地跡」・「住居跡地」の碑


開墾の跡地碑

解説板から

弘化2年(1845)久留米藩の武士森山家に生まれ、10歳で藩の学校明善堂に入学します。

成人した先生は江崎済と名乗りました。優秀で、明善堂の副寮長にも選ばれています。

幕末の藩では開国派と反対派が対立し、大切な命が失われました。心 痛める先生は、明治2年東京に出て安井息軒に学び、1年後に戻ります。

この時久留米藩では大楽事件(山口県庁を襲った奇兵隊の大楽源太郎を隠しきれずに暗殺)が起こり、匿った者の処罰が始まりました。

不安を感じた先生と若林卓爾(後の久留米市長)・内藤茂三郎(後の岡山小学校長)は大渕の五条氏を訪ねて相談、桑取藪の農家を紹介され、川伝いに矢部の隠れ家に入りました。

江崎先生その後の略年表

  • ・明治6年(1873) 宮ノ尾の栗原常次宅に矢部小学を開校し、江崎は校長となる。善正寺住職の田中智旭、村の初代郵便局長になる宮原聞多が、教師として江崎を助ける。
  • ・明治7年(1874)矢部小学の新校舎を作り、二階に漢学の「矢部塾」を開く
    後の村長坂本虎之助や宮内萬吉・村会議員新宮勇らが学ぶ。
  • ・明治9年(1876)黒木(黒木町)小学校長を兼ね「黒木塾」を開く。
  • ・明治12年(1879)北川内(旧上陽町)小学校長に転出、「北?義塾」を開く。
  • ・明治25年(1892)御原郡(小郡市)松崎高等小学校長に転任、塾を閉じる。
  • ・明治36年(1903)県立明善校(今の明善高校)教諭となり、漢文科を担当する。
  • ・大正15年(1926)明善校現職教諭のまま、82歳で亡くなる。

「江崎先生の門下生」

  • 三越デパートを始めた日比翁助・陸軍大将仁田原重行・文学評論家石橋忍月・アメリカでポテト王と言われた牛島謹爾・日韓の平等併合に努力した武田範之など著名である。
  • また、鏡山修(草野銀行取締役)・木下学而(衆議院議員)・松木和蔵(旭松酒造創立)・北川親蔵(大淵村長)・隈本勝三郎(黒木町長)・立石貞幹(横山村長)・立野新五郎(小学校長)・広瀬大作(医師)はじめ教えを受けた地元の人たちが、様々な分野で活躍している。
  • 「江碕先生開塾の地跡」碑は、北汭義塾建碑委員会により昭和57年に建立されました。碑の裏(左写真)には丸山豊氏(医者であり詩人、久留米市出身)の詩が彫られています。

石碑(左写真)の碑文

「先生は高い学識と深い特性によって、故園に心の種子を蒔かれました。北汭義塾はその大きな足跡です。先生を敬仰する私たちはここに来て無量の教訓を学び、精神の真の豊穣へ志を立てるのです。」

丸山豊

「開塾の地跡碑」の反対側にある
「住居跡地碑」