菊池氏遺髪塔

上陽町北河内上名

街道から民家の間、細い急な道を登る途中にある.説明板より転載

菊池遺髪埋葬の碑

  • ・菊池武照 慶応 4年(1397)  3月17日
  • ・菊池澄安 慶応34年(1417) 12月 3日
  • ・菊池貞雄 永享 5年(1433)  3月27日
  • ・菊池澄雄 宝徳 3年(1451)  8月 4日
  • ・菊池澄家 永正13年(1516) 10月21日
  • ・菊池武久 元亀 2年(1571)  3月10日
  • ・菊池家隆 慶長 3年(1598) 11月 3日
  • ・菊池武家 正保 3年(1646)  8月10日
  • ・菊池芳政 天和 3年(1683)  8月 4日

菊池遺髪埋葬の碑は上陽町大字北河内上名、正平寺跡の上山にあり、延享3年(1746)6月23日、西村佐助によって建立されている。

菊池一族は南北朝時代、征西将軍懐良親王の警護役を務める。南北朝合一の後、菊池澄安等は生葉郡千足村(浮羽郡吉井町)に居住を構えた。12代芳延は有馬公に仕えて西村七郎右衛門と名を改め、久留米城の時鐘を司り、後に御井郡宮の陣に移り、酒造を営み、屋号を「時鐘屋」と称した。

その子又兵衛は上妻郡津の江(八女市)に来る、元禄13年(1700)上妻郡北河内村上名(八女郡上陽町)に移住して茶商を営み、屋号を「三星屋」と称した。菊池遺髪埋葬の碑の由来は武照より代々芳政までの遺髪箱を永住の地、竹野郡石垣村(浮羽郡田主丸町)と定めたるも西村佐助によって上妻郡北河内村の墓地に納めて自然石の塔を建て南無阿弥陀仏と刻み安置する。

平成12年3月27日
上陽町教育委員会

菊池遺髪塔

説明板から急坂を少し上ると大きな古い塔石があり、
菊池氏の直系にあたる西村氏の説明を受けました。

昭和8年9代西村清吾殿時代記す
紀元1335年建武2年、足利尊氏は祖先源氏の志をつぎ二度武家政治を企て当時南朝の忠臣多く戦死す。我家の祖菊池武重の弟武敏と共に尊氏と戦い武時博多の途にて戦死す。昭和8年600年忌、孫武安は肥前にて戦死。後醍醐天皇の第9皇子御青年の頃、星野村の本星野妙見城に御下向後我家の遠祖菊池武重の一女を妃とせらる。すなはち征西将軍懐良親王と申す将軍御下向後20年目に筑後川の合戦あり、西村家は筑後川合戦より359年目に北河内西村元祖又兵衛死去後、三井郡二田より移りたるもの。又兵衛の墓は北向とせる様言い伝えらる。我家は余米七百俵を収めていたとの事先納税にて家運衰え、初代又兵衛は八代将軍吉宗の二年目に死去、星野高木家は宝永以前に起り、正辰寺は寛永年間、正明寺天正年間、浄源寺天文年間、浄円寺は天文年間に、各々創立す

昭和58年十代西村蔦枝(61才)先祖の碑を銘し後世に伝える

西村家一門 菊池家最後の人芳政(田主丸大庄屋長芳の子)は武家の婿養子となって後を継ぎ、御井郡宮の地に移住した。武家までの宗家は当主総ての人が先代の子である。芳政の子菊池七右衛門が有馬氏に仕える際、故あって西村七郎衛門と改め西村家が誕生した。後に西村又兵衛芳延(梅悦)と改め宮の地に移住した。藩の時鐘を司り酒造を営み時鐘屋と称したが、後に事情あって役職を辞し、津の江に移住した。芳延の子又兵衛(梅園)元禄13年上名に移住し御茶商を営み異人との交易を博多にて営み屋号を三星屋と称した。大庄屋総代(17才)全総後見役を務め、室園神社拝殿の寄進(宝永4年)、祇園神社殿の取立を行った。又兵衛の子佐助(14代)は上名に居住し享保13年村内にも勃発せんとした百姓一揆を鎮撫し、菊池氏埋葬之碑正明寺本堂を建設した。又兵衛の子佐助(20代)で長年続いた御茶商三星屋の幕はとじた。21代吉太郎(タマ養子離別)長子清吾(22代)は21才で金山事業、西村家再建の為台湾に渡り、後朝鮮にて○子商を営み、光星堂と屋号をつけ商売に力を入れた。其後二男一女を当○でなくし悲しみのあまり大正10年北川内456番地に帰り次女蔦枝4才の時、母33才の若さで他界す。父清吾は昭和18年4月3日68才の生涯を終えた命日に当たり先祖の冥福を祈る。

建立者 西村蔦枝

数箇所に残る碑
墓地の中は草に埋もれた西村家の碑がいくつかあり、その中の一つを読めば。
長い年月の間、変遷していく中でも誇りを失わない一族の姿勢を感じました。

菊池氏一族と西村家の碑

昭和61年3月上陽町教育委員会に於て菊池氏埋葬之碑、建立された碑文と

西村家系図を参考資料に菊池氏と西村家の由来を子孫に残す為この碑を建立す

十代菊池武房公は西海第一軍功に達し忠賞として甲冑を賜り従三位授与す

十一代時隆、鎌倉にて戦死当時長子武時の詠
「武士の上矢の鐘一筋に思う心は神ぞしるらん」

十二代武時、博多探題 元弘三年三月十三日博多にて戦死 妻に宛てた歌一首
ふる里の今宵ばかりの命ともしらでや人のわれをまつらん(武時四十一才の生涯)

十三代武重、寄合衆内談の事(菊池家憲)家内正法と共に竜華の暁に及ばん事念願すべし 武重千本槍で名高い武重(袖ケ浦の父子の別れ:博多)

十四代武士、病弱の為念仏の僧となり諸国を行脚してその終る所しらずと
「袖ふれし花も昔を忘れずばわが墨染をあはれとは見よ」と歌を残して此の世を去った

十五代武光、筑後川の戦、朝来の血刀を小川で洗い水が朱に染ったという
(現大刀洗町の地名の由来)

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