五条家

「御旗まつり」

(2009年9月23日 八女郡黒木町大渕)

祖先を祀る行事が毎年催されています。
バスの予定で、式の途中、庭に入り、途中で退席しましたが、前から準備に関わられている地元の方たちを思えば、申し訳ない気持ちになりました。

座敷前の庭には参列者・・。子供達の奉納する公卿唄

  • 一、こちの座敷は 祝いの座敷 鶴と亀との 舞い遊ぶ
  • 二、鶴と亀とは何して遊ぶ末 は繁盛と 舞い遊ぶ
  • 三、若松さまよ 枝も栄ゆる葉も茂る。
  • 四、さすは大黒、あがるは恵比寿想いに

  • (上左)大原合戦で使用された鎧兜
  • (上右)後醍醐天皇により五条頼元に下賜された「征西将軍のみしるし」金鳥の御旗(670年前のもの)
    (金鳥=きんう:太陽の異称、太陽の中に住んでいるという想像上の鳥で、この旗を賜った時「五条の姓」「菊桐の紋」「御剣」を賜る。剣は現在なし。)
  • その他:
    • 国指定重要文化財の五条文書 369通 17巻、
    • 後征西将軍良成親王ご遺品として具足、籠手、脛当、陣中の手鏡
  • 五条頼元着用の甲冑【正平14年(1359)・8月大保原の合戦(筑後川の合戦)の激戦を物語る矢痕のあとが残るという。
    (この時、征西将軍(懐良親王) 31歳、菊池武光38歳、五条頼元70歳】

室内に掛けられていた額「五条頼元卿」

(1)延元元年 秋9月 比叡の仮の宮居にて 受けし勅を身にはしめ 宮を戴き征西の  御戦を扶けまつらむと 下るは五条頼元卿
(2)南風競はず先帝の 遺詔を受けし胸如何に 或は帷幄の臣となり 或は野戦の将となり 宮に仕へて筑紫路の 鎮となしぬ征西府
(3)西の吉野と仰がれし 花も紅葉に うつろひて 矢部の秋風寒けれど 操は堅し高屋城 勲功伝えて菊柳の  御紋の香り世に高し


展示されていた(屏風絵らしいものの複製)一部
戦の合間に水を飲んでいる様子が描かれています。


中央が五条家、右の高木が北白川宮能久親王殿下御手植桧

「明治26年北白川宮能久親王殿下御側御陵御参拝の節当邸に御宿泊 御手植の桧、根廻九尺」

五条家は清原氏の一流で、代々明経道を以って朝廷に仕えた公家だった。

五条家始祖、頼元は後醍醐天皇の御信任厚く、延元元年(1336)皇子、当時7,8歳の懐良親王が征西将軍に任ぜられて鎮西下向の時、勅命により親王の補佐のために随従、親代わり、学問の師として教導扶育につとめたが、
足利氏追討の軍務を補佐して各地を転戦、正平22年(1367)筑前三奈木で没した。享年78歳。

2代:良氏・3代:良遠・4代:頼治・5代:良量、父祖の志を継ぎ、矢部を本拠にして忠誠を尽した。 南北朝統一後も、矢部の有力な土豪として勢力を保持し、戦国時代には当時九州で一大勢力を誇った豊後大友氏に属し、12代鎮定は武将としても名を挙げていた。天正15年(1587)秀吉の九州平定にあたり、領地を取り上げられたが、大友義統の好意で豊後玖珠に移住→加藤清正に500石の知行で招かれ八代に転住。清正の没後14代長安は立花宗茂に客分として仕え、寛永3年(1626)旧縁の地である黒木に定住する。

=======================================

明治期の初頭、ここを訪ねた江崎済たちは、五条家の紹介で桑取藪に身をひそめます。

=======================================

home