八つ墓の由来

400年以上前、・・・・天正19年(1591)5月13日夜半のことです。

当時、殺戮と焼き討ちに明け暮れた動乱の世も豊臣秀吉の九州征伐をもって終止符が打たれます。しかし天下泰平になったのではなく、豊後の大友・肥前の竜造寺・薩摩の島津(いずれも高良山に陣地を構えたことがあります)が覇を競いあっていました。
秀吉は、毛利秀包を久留米領主として7万5千石を与えて下向させました。

毛利秀包は毛利元就の7男(9男とも)で、もとの名を元総と称し、小早川隆景の養子となり、後に秀吉に仕え、その諱字を与えられて秀包と名乗りました。秀吉のおぼえは特に良かったようです。
彼はキリシタン大名で、異国から宣教師ワリニアリを招いて洗礼を受けます。
彼のキリシタン名はシメオン(Simeon)、夫人(引地)はマセンチャ(Maxencia)と称しました。
夫人はやはりキリシタン大名の大友宗麟の娘です。

秀包は筑後統一にあたり、以前から権勢を誇る高良山の勢力を壊滅させることを考えました。
当時の高良宮は僧兵や武士1500余を抱える宗教的豪族で、座主麟圭の弟は久留米城に居を構えていたこともあります。
秀包の居城は現今の篠山城とは違い、蜜柑丸という東向きに築かれた城で、久留米大学医学部グラウンド附近だったようです。
秀吉から一切を託された久留米城主ですから、沽券にかかわるのですが、戦をしても歯が立たず、高良山はどうしても秀包に従いません。

そこで、秀包から和議を申し出、座主の麟圭とその息子の良巴を城中の酒宴に招き、機を見て謀殺するつもりでした。
しかし麟圭親子はそれを察知して酒宴半ばで脱出を図りましたが、柳原に逃げた所で主従8人が惨殺されます。

道頓堀商店街から移された八つ墓の写真

柳原近村(肥前への往還は三本松から柳原を通って小森野の舟渡しで筑後川を渡るとあります)の里人は座主たちの最後を悼み、あちこちに逃げ隠れたあげく、殺害された遺体を集め、墓を立てて祀ったのが道頓堀商店街の片隅です。(現在の西鉄久留米駅近く、日本生命ビルの裏)

墓石は高さ60cm、横50cmで、”八つ墓”と刻まれた自然石、建立は嘉永4年(1851)。手前の花立には玉椿社の字が彫られています。

言い伝えられた話に、この墓の傍らに玉椿が繁っていて、この葉を取ると葉が痛み出し、あわててお断りをすると歯の痛みが消えるということで、おまいりする人がいたそうです。

毎年8月25日が祭礼日で、玉椿の紋を描いた献灯が下げられて賑わったようです。

昭和55年8月21日、大成建設ビル工事に伴い、医王寺に移転、納骨堂南西に安置される。

医王寺発行の小冊子「八つ墓の由来」より引用。


*)日本生命ビルの裏に設置されている跡碑

日生ビル裏の跡碑


参考)毛利秀包

1567年(永禄10)生まれ-1601年(慶長6年)3月、下関で病没。享年35才
毛利元就の第9子。毛利家の人質として秀吉の大阪城に行く。小牧・長久手の戦い(対家康)では秀吉側で出陣。小早川隆景(兄)の養子として九州征伐に従う。
一時、兄の小早川姓を名乗り、毛利一族の中では目立たぬが、武勇に優れた武将だったという。大友宗麟の娘を妻にした縁でキリシタン大名となった。

(wiki)

お断り:各種データを年代順に並べてみると?な部分が見つかり、判断に苦しみます。誤記に気づかれた方ありましたら、参考資料と共にご連絡頂ければ幸いです。

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