草野氏の滅亡と高良山座主麟圭の誘殺

その時代背景

九州平定後の統治は、中世的在地領主(国人衆)という中間収取者をなくし、新大名を通じて直接生産者である農民を支配するという、秀吉の政治原則に基づいていた。

天正14(1586)年、島津征伐
天正15(1587)年6月、肥後は佐々成政に与えられた。
しかし、佐々は秀吉の指示(国人衆に従前のように知行地を渡すこと、3か年検地をしないことなど5か条の定め)に従わずに検地をしようとしたため、国人衆が蜂起し、秀吉はこの機に九州経営の妨害を取り除くため出兵した。

草野氏の滅亡

  • 天正14年頃、草野氏は出兵して秀吉に対する忠誠を示した。
  • 太閤の筑後入りに際して吉見岳に参謁せず、その不興を買い、ついに逆賊として誅殺された。

麟圭の誘殺

太閤の筑後入りの時、秀吉は座主良寛に替えて弟麟圭を座主とし、府中・高良内・宗崎・阿志岐4か村内に所領を与えていた。

事件の背景:

  • 麟圭:高良山衆という筑後最大の宗教的権威に支えられた在地士豪としての勢力は強く、豪勇を誇る麟圭は、秀包と融和せず、たびたび筒川(文化センター西)の沼地を挟んで接戦したといわれる。
  • 文禄元年4月19日、筑後関係の諸大名は毛利輝元の指揮下に編成されて朝鮮へ渡った。(第一回の朝鮮役)。秀包軍は1500人を出した。(軍役1万石に600人の割)
    この出陣に当り、兵糧米や軍夫の徴収の障害と考えられる高良山勢力の抵抗・出兵留守中の不穏な動きを警戒した。

秀包の「智略」

  • 麟圭の妻の妹を家臣林次郎兵衛に娶らせて高良山側を油断させたので、この縁組後、麟圭とその子了巴(りょうは)は心安く久留米城に出入りするようになっていた。
  • 油断した麟圭親子を城へ召し寄せ、その帰りを待ち受けて殺させた。

その後

文禄3年以降、麟圭の末子虎丸(のちの尊能)が座主職を受け継いだ。文禄5年5月10日、太閤の命を受けて秀包は1000石の神領寄進をおこなった。

home