特攻機について

フィリピン、沖縄作戦の全期間(10ヶ月)に突入した特攻機

  • 陸軍:1185機 ・ 海軍:1298機(合計:2483機)
  • 体当たりした機数:244機
  • 至近に突入した機数:166機
  • 奏功率:16.5%
  • 連合軍の被害艦数:358隻

アメリカ海軍損傷艦の48%は特攻攻撃によるもので、太平洋戦争全期間の米海軍沈没艦の21.3%は特攻隊によるものだったという。

(「日本海軍航空戦史」)

特攻に使用された飛行機たち

●戦闘機

91式(高翼単葉、空冷450馬力、中島製)
1932年(昭7年)生産開始
最大速度:300km/h 航続時間:2時間
95式(複葉、水冷800馬力、川崎製)陸軍最後の複葉戦闘機、日中戦争(支那事変)初期の主力戦闘機
1935年-1938年(昭和13年)末まで生産
最大速度:400km/h 航続距離: 1100 km
97式(陸軍最初の低翼単葉、機体に330Lの燃料、増槽(落下式)130L×2個・・・合計590Lの燃料を搭載)
1940年(昭和15年)前後の主力戦闘機‐1942年(昭和17年)春頃まで実戦参加
最大速度:470km/h 航続距離:627km
若年兵が操縦の容易な九七戦に250キロ爆弾を搭載して出撃したが、軽量小型で馬力不足の九七戦では、離陸から飛行まで常時エンジンを最大出力にする必要があった。このため潤滑油が焼付きエンジン停止などの故障が頻発、出撃不能や帰投が続出した。太刀洗平和記念館に現存する同機も250キロ爆弾搭載による過積載のため飛行中エンジン不調に陥り、博多湾に不時着水を余儀なくされた機体であるといわれる。
3式戦闘機一型(乙・丁の2つあった)(飛燕)
最大速度:560km/h・590km/h
航続距離:3.65時間・1,800km

防空戦闘隊としてB29と対戦することを考えれば20mm機関砲の装備が望まれるが、
陸軍航空本部調査団がドイツに行った時に購入したドイツのモーゼル社製20mmMG151/20機関砲(初速は695m-785m/秒)で実現された。
機関砲800門、弾薬40万発がドイツ潜水艦によってインド洋上まで運ばれ、日本潜水艦に積み換え持ち帰ったという。

*)海軍はゼロ戦22型までスイスのエリコン社製20mm機関砲を使っていたが初速で100m/秒前後早かったという。
弾丸はドイツ都市防空用に開発された曳火榴弾で射距離3000m附近で自爆し、地上の人や建物に被害をあたえなかった。
また不発弾があった時にも自動的排出装置が働き、連続発射ができる構造だった。
モーゼル社製の機関砲は小型軽量、高性能だったので、3式戦の主翼に装備していた13mm機関砲と交換装備された。(昭和18年12月初め頃)

1式戦(隼)
13mm機銃×2挺の軽装備で撃墜率が低い恐れがあったが、小回りがきき格闘性能にすぐれていた)
1941年4月から量産された。
海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位
航続距離:1,620km 最高速度:(後期型)548km/h
2式単戦(鐘馗)
1941年11月 運用開始
最高速度(二型甲)605km、航続力1200km
2式複戦(屠龍)
最大速度: 547 km/h 航続距離: 1,500 km
4式重戦(疾風)
主翼には20mm機関砲×2挺、13mm機関砲・2000馬力級の「ハ45」エンジンでハイオクタン燃料使用の設計だったが、戦局が不利になると燃料の入手が困難となり、性能を発揮できなくなった)
百式司偵 陸軍の主力偵察機
最大速度:630km/h 航続距離: 6,000m
1941年(昭和16年)-1945年(昭和20年)の敗戦まで
99襲撃機
最高速度:424 km/h 航続距離:1,060 km
1940年(昭和15年)5月から
百式重爆撃機(呑龍)
最大時速:492km/時 航続力:2,000km
99双発軽爆撃機
最大速度:480km/h 乗員:4名

●偵察機

94式(一葉半型複葉、空冷550馬力、中島製)
昭和9年7月からの総生産機数は383機
最大速度:300 km/h 航続距離:1,200 km
木金混合構造羽布張りの主翼
99軍偵 (軍偵察機と襲撃機を同一機種とした)

●軽爆撃機

93式単発軽爆撃機(複葉、水冷800馬力、川崎製)

●重爆撃機

93式双発軽爆撃機(低翼単葉双発、空冷450馬力×2、三菱製)
4式重爆撃機

太刀洗飛行場での事故

出撃

昭和20年3月25日頃「誠」第33飛行隊が特攻に出撃

他の基地で集結して出るなど、他にも特攻出撃はあったと考えますが、現時点で正確なことは分かりません。
(資料などご存知の方はご一報いただけると幸いです。)

捷一号作戦(連合軍フィリピン方面上陸作戦に対し、戦艦武蔵が犠牲となって反撃の機会をつくろうとした)でフィリピンへ移動する時、保有機数約550機のうち出動可能機数は240機(44%)だった。

飛行第20戦隊は操縦者14名訓練中の操縦者(飛行時間100時間未満で離着陸訓練が必要)50名と使用可能な1式戦闘機4,5機で完全編成の戦闘部隊に比べれば操縦者は1/3、戦闘機は1/10という状況だった。

この頃の米軍グラマンF6Fヘルキャットは13mm機銃×6挺、隼は13mm機銃×2挺だった。

参考資料:「陸軍特攻の記録・隼戦闘隊長の手記」著者 村岡英夫氏 光人社刊


山本辰雄伍長(19歳・韓国籍)は1945年5月23日、早朝、さくら弾機の放火事件が真相不明のまま処刑された。
彼は出撃前夜、二日市での壮行会に出席していたので、冤罪だったと考えられる。

海軍「4神風特攻隊 第二御楯隊の編成と出撃「激動の青春時代」(千葉県旭市・「流れ星」さんのサイト)にリンクしています。

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