大刀洗飛行場

民間航空の幕開け

大正から昭和になると、政府は航空思想の普及に乗り出すが

昭和3年(1928)7月、大阪朝日新聞社は有名人の体験飛行を企画、柳川出身の詩人・北原白秋(詩人)は恩地孝四郎(画家)と共に旅客機ドルニェ・メルクールによる大刀洗から大阪に向けての芸術飛行に招待され、妻・長男の隆太郎(6才)を伴って19年ぶりに故郷柳川に帰り、大歓迎を受けたという。

白秋は大阪朝日新聞に「天を翔る」(サブタイトルは「空中旅行記」)と題した記事を8月3日から連載した。

*)柳川市矢留町、白秋公園内の詩碑「帰居来」の詩は、この飛行体験も生かされて作られたらしい。

昭和4年(1929)4月:東京-大阪-大刀洗間に郵便飛行を始めた。

(機種は陸軍払い下げの中古複葉機「サルムソン」)「わが国史上、一時代を画した」の記事(福岡日日新聞記事)

【各務原航空宇宙科学博物館>展示機紹介】サルムソンの画像

(菊池武光銅像の近くに日本航空輸送株式会社太刀洗支所を設置、民間での西日本航空発祥の地となる)

西日本航空発祥の地

同年(1929)7月:米国製フォッカー・スーパーユニバーサル機を6機購入し、乗客を乗せて東京-大阪-大刀洗間を毎日一往復させた。

同年(1929)9月:大刀洗から蔚山(うるさん)~平城~大連に延び、大刀洗は国際空港となった。

(後にオランダ製のフォッカー-F7-3m機(乗員2人・乗客6人)が投入された)
ブログ「機械は動かないと・・・」に画像

「三井郡読本」(三井郡教育会編)の「空の護り大刀洗」(昭和10年発行)に次の歌が載っている。

夏は涼しき大空で 一千馬力の扇風機
緑の英彦山かすめつつ 銀の翼で大空切れば
花のお江戸へ唯六時間 飛んでお出よエヤライン

昭和5年(1930)8月、昭和天皇の弟、秩父宮が陸軍学生研修で大刀洗飛行第四連隊に入隊・大刀洗の知名度が高まった。(久留米市の実業家・石橋氏邸を宿舎として久留米から小郡~松崎経由で車で飛行場へ向かう)

大刀洗が国際空港に

*)戦争の緊迫感がなかった時代、航空思想普及のため、招待飛行が企画された。

立石小学校の先生だった小郡市井上の黒岩フクエさんは「招待で同僚の先生たちと甘木上空を飛んだ。立石小学校の運動場では、全校生が手を振って応えてくれた」と話している。

同市吹上の重松元吉さん(当時101歳)は孫、喜六さんが操縦する飛行機で家族5人と搭乗し「百一翁が空の遊覧」(「両筑新聞」昭和6年11月11日付)と報じられ、話題を呼んだ。

人気呼ぶ遊覧飛行

昭和5年(1930)11月から東京・大阪・太刀洗の各飛行場では航空会社による遊覧飛行が始まった。大刀洗では久留米上空をめぐる十数分間の”空中散歩”(料金5円)が小郡の人たちの間でも人気を呼んだ。

昭和11年(1936)5月、福岡の民間航空は雁ノ巣(福岡市東区)へ移転した。(民間航空の終焉)

(参考文献:「証言 大刀洗飛行場」(筑前町)
「小郡市史第2巻 通史編 第7章」 
「大刀洗飛行場物語」桑原達三郎著 葦書房刊)
「筑紫れくいえむ」坂井美彦・ひろ子著 西日本新聞社刊)

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