太刀洗飛行場

若者達の犠牲

郡立立石小学校今隈の碑
左:小学校 右:今隈にある記念碑 今隈地区は飛行場のほぼ西、約2km

当時、群立(一ツ木の児童が通学)と村立(今熊の児童が通学) 2つの立石小学校があった。

○生徒達

*立石小学校は(現小郡市立・現甘木市立)の2つがある

村立立石国民学校(現・小郡市立立石小学校)

今隈地区の児童3人、終業式から帰宅中に爆死した。1人の児童は立ち木に引っかかった帽子やズボンの切れ端から死亡が確認された。場所は井上三軒屋の県道から今隈道へ入ったところである。

当時、今隈の道の両側は雑木林で、そこにはドラム缶や軍の物資が隠され、近くには高射砲(木製の模擬砲)5基もあった。
この時、亡くなった児童3人の他、数人が重軽傷を負った。うち児童の1人は弾片で腸が露出していたが、引率の女性の先生の応急手当で一命を取り留めた。
他に、馬車を引いていた今隈の大人1人、三軒屋の家に福岡市から疎開の打ち合わせに来ていた若い母親と幼児も亡くなった。

朝倉郡立立石国民学校(現・甘木市立立石小学校)

500名の児童達は毎朝集団登校していたが、「一ツ木」に住む児童45名位の集合場所は、「甘木生徒隊」の裏門前だった。6年生と高等科2年生は卒業していたので、最高学年は高等科一年生になる。
児童達の胸の白い小さな布片には、「一ツ木」、ほかには血液型、氏名、保護者名が書かれていた。女の子は藁ぞうり、男は下駄か裸足だった。(戦争の長期化で、ズック靴は消えていった)
そこから学校まで、子供の足で10分ほどの距離だった。

*)頓田の森は(一木信号から進めば)甘木第一クリニックから右折。
道が狭く、わかりにくいですが、近くには案内板があります。(一木神社、延命地蔵にも案内板があります)

頓田・一ツ木map


一木神社
-376m-
一ツ木信号
-512m-
大添橋

大添橋-頓田の森
(543m)
大添橋-立石小学校
(484m)

甘木生徒隊-国民学校間:児童の足で10分

一木神社を西へ-東田信号-500号線-平和記念館・小郡インター方面

頓田の森 遠景
上記写真、左側、背の高い茂み部分だけが頓田の森(平和花園)として整備されています

頓田の森 看板頓田の森 旧式ポンプ

一部に畑の残る住宅地の中、細い道を辿ると小さな森の趣の残る広場。爆弾が直撃して大きな穴が開いたという。
右のような昔の井戸ポンプ(当時もあったのかどうか不明ですが、水が出ました)

***

一発の弾丸で30名以上の児童が集団爆死した例は全国で2件だけという。
米軍の艦砲射撃による沖縄児童「一ツ木」の児童)

***

学校では、警戒警報に続いて空襲警報が出たので、修業式を中断し集団下校を始めたが、
途中、甘木生徒隊の裏門付近にさしかかった時、第一の編隊による飛行場への爆撃が始まった。
「ここは危ない。学校へ戻れ」と叫ぶ将校と下士官の声で、引率の訓導は、第二波の爆撃前に、少しでも安全と考えられる森の中に誘導した。
生徒達が伏せた所から50m北に直径10m深さ5mほどの「すり鉢状の穴」が開き、子供達の姿は見えなくなった。彼等は爆撃で落ちた木の葉や枝の下になったり爆風ではね飛ばされたりしていた。
幼少の子等、足の遅い子でなく、森の中に早く避難できた生徒達が被害にあったという。

私達につづく戦争を知らない世代に

太平洋戦争末期、昭和20年3月27日
国東半島から進入した米軍のB29爆撃機の大群は太刀洗飛行場を爆撃しました。 その時落とされた爆弾の一発が、この頓田の森で、立石小学校の児童31名を殺したのです。このことを知る人が今だんだん少なくなっています、この時以来、児童達の親や兄弟、祖父母は何を思い、何を考え、どんな毎日を過ごしてきたのでしょうか。 私達は、この事実を風化させることなく戦争を知らない次の世代の子供達に残さなければならないと思います。二度とこの様な悲惨な戦争は繰り返してはならないのです。 私達は古里甘木朝倉を愛しています。
この古里を愛する心を一人一人が育んでゆくためにも「頓田の森 平和花園」をみんなで大事に育てていきたいと思います。

昭和56年11月 社団法人 甘木朝倉青年会議所
(頓田の森・平和花園に掲示されている)

*)陸軍病院(現県立朝倉病院)と生徒隊の施設に隣接する「一ツ木」の生徒達の住居は、
飛行場にも近い危険な地域にあり、学校などの大きな建物は攻撃目標になる危険があった。

一ツ木地蔵一ツ木地蔵と殉難児童の名簿
一ツ木地蔵、地蔵の下には名前がたくさん彫られていました。
右写真の看板には犠牲となった児童の学年と氏名が・・・。

殉難児童

当時:国民小学校の初等科

1年:4名(男2・女2)満6歳・・小学校1年
2年:4名(男2・女2)
3年:5名(男4・女1)
4年:6名(男2・女4)
5年:8名(男2・女6)

国民小学校の高等科

1年:5名(男2・女3) 満12歳・・中学1年に相当
計32名

即死24名、当日死亡4人、
後、4月7日迄に病院で死亡3人、その後の爆撃で死亡した生徒1名 。
重傷の児童8人中、1人だけが助かった。
(その子の父親は、大刀洗航空機株式会社の治工具課総責任者として100名程の部下を統率していた。子供は故国の韓国に帰り、7年後、朝鮮戦争勃発後、38度線の戦闘で死亡したという。)

飛行場は久留米のほぼ北、12~13km程度(直線距離で概算)の位置
3~4平方キロ程度の広さの中にある飛行場・関連施設に対して1000発以上の爆撃。
周辺地区では上記の今隈、一木地区の児童達の他にも被害があったと想像される。

○甘木生徒隊

旧朝倉郡立立石国民学校跡地

甘木生徒隊の校門跡(現在は一ツ木児童公園)

左写真)門を入ると、右手に高いコンクリート造りの防空監視塔が見え広々とした校庭があり、左手には木造二階建ての兵舎が4棟奥にならんでいたという。

残された記録では、生徒同士の喧嘩、便所に隠れての喫煙、営内売店からアンコの盗み出し、被服庫からの靴下万引きなどがあり、それをとがめられて「全員集合、ビンタ」などの厳しい体罰も受けたという。

また、行動がたるんでいると、制裁を受け、気合いを入れられ、「生徒隊2000余名の内、7名の脱走者が出た」という記述もあり、落伍者が出たほど厳しい訓練の日々だったため制裁に耐えかねて脱走し、山林で首を吊って死んだ少年兵もあったという。

甘木市一木にある甘木生徒隊には全国各地からきた少年航空兵が入校したが、日ごとに悪くなる戦局がパイロットの養成を急がせ、1年をかけていた軍人としての基礎教育は、それまでの三分の一の期間に短縮強化され「きわめて厳しく激しい教育、訓練だった」

19年3月、参謀本部は「艦船に対する体当たり戦法」の採用を決定した(軍の最高機密だった)

各分校に配備されていた練習機は
(四式基本練習機・ユングマン:ドイツ製、単発、2人乗り初歩練習機で機長6.6m、幅7.3m、重さ408kg、最高速度180km/h、セスナ機より小さく、新幹線より遅い)を使って4ヶ月、飛行機の基本操縦を身につけた。

*)熟練パイロットとはいえない教官たちが、少年飛行兵を非常に短かい期間で教えた。、
少年達は、それほど高度な操縦技術レベルに達してはいなかっただろうと考えられる。
終戦間際の日本に残った旧式飛行機(航続距離が沖縄まで届くか届かぬ程度)に250kg爆弾を積み、
沖縄付近の米軍艦船に体当たりするという作戦だった。(少年兵達を考えればたまらない気持ちになります。)

当時、国民皆兵で20歳になると、身体、身上等の徴兵検査を必ず受けなければならなかったが、昭和18年末、徴兵適齢は19歳にさげられた。

18年8月11日陸軍少年飛行兵学科試験がおこなわれた時、全国で受験し合格した14歳から17歳までの少年たちは「第15期乙種生徒」と呼ばれる短期養成の生徒で総数8300名。このうちの2000余名が甘木生徒隊として入校した。
(生徒は入隊にあたり身体検査と適性検査がおこなわれ、操縦・整備・通信の3科に分けられ、それぞれ教育隊に配属された。)

このように徴兵年齢に達しない少年を志願させて飛行兵に養成する制度が、海軍予科練(飛行予科練習生)や陸軍少年飛行兵。
昭和20年8月終戦迄に20期、4万6000名に達した。
他に少年戦車兵や海軍特別年少兵・・等があった。

海軍予科練制度は昭和5年に始まり、続いて昭和8年、陸軍少年飛行兵制度が導入された。
甘木生徒隊の慰霊碑(甘木公園丸山池傍の忠霊広場)
甘木生徒隊の慰霊碑(甘木公園丸山池横の忠霊広場内)

○航空廠

戦争が激しくなると、毎月7~800名の初年兵を迎え、短期養成に一段と拍車がかかった。
ここを修業した兵達は日本各地、朝鮮、台湾、南方方面に転属、任地での作戦任務についた。

○技能者養成所

終戦近くになると航空機整備技術者が足りないという軍部の要請に応えて、航空廠幹部は国民学校に出向いて入所を勧誘した。
その結果高等科を卒業した15歳~16歳の少年達が500名ほど志願してきた。

○大刀洗航空機製作所

昭和20年になると、1万4千人の男女が3交代制で働いたという。その結果、月産100台に達した。

○女子挺身隊

昭和18年9月、政府は「国内必勝勤労対策」を決定して14~24歳の独身未就職女性を挺身隊員として動員する計画を立て、昭和19年1月15日、全国一斉に第一次挺身隊が召集された。

大刀洗には、門司、筑豊、若松、朝倉、浮羽から来た女性たちが主に大刀洗航空機製作所を職場とした。始業時刻は7時15分、昼食時間は40分、午後の休憩20分、終業時間は午後4時45分だった。
一日三交代制で機械は運転を続けていた。
徳之島から来た挺身隊員は風邪をこじらせて20歳で亡くなったという。

昭和19年3月には第2次挺身隊が派遣され、朝倉郡在住者は大刀洗航空機製作所、甘木町と三井郡在住者は大刀洗航空廠。その他、第五航空教育隊、大刀洗飛行隊へも派遣された。

昭和19年4月10日にも第三次の挺身隊が召集されたが、以後の召集はなかったという。

甘木女子挺身隊の碑
甘木女子隊員の碑
(甘木公園・忠霊塔広場)

(参照文献:参考資料)
「小郡市史第2巻 通史編 第7章
「証言 大刀洗飛行場」(筑前町発行)
「大刀洗飛行場物語」桑原達三郎著 葦書房刊
「筑紫れくいえむ」坂井美彦・ひろ子著 西日本新聞社刊
「ユキは17歳 特攻で死んだ」毛利恒之著 ポプラ社刊

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在米日系人の人達について

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