筑前町立大刀洗記念館:2009年(平成21年)10月3日オープン。

大刀洗平和記念館

入場料:大人(500円)・高(400円)・小中(300円)
・問合せ:0946-23-1227

新設の筑前町立平和記念館は旧記念館(下写真)から500号線を渡った位置。
広い敷地・駐車場で建物内には1800点の展示がされています(証言ビデオも含む)
また、当時の市民生活の様子を知ることのできる資料も展示されています。
(3号線から500号線-小郡経由で約8km・甘木線小郡駅から6駅目)

map


新しい筑前町立平和記念館:格納庫をイメージした形。


平成8年に博多湾で見つかった九七式戦闘機(九七戦)
現存する唯一の機体


海軍の零式艦上戦闘機三二型
昭和53年(1978)タロア島で発見されたYS-128
(第252海軍航空隊長柳村義種大佐の乗機)
昭和58年(1983)にサイパン島から帰ってきたものです。
(上の2つだけが撮影を許可されていました)

******** 以下は旧大刀洗平和記念館での記事です ********

旧大刀洗平和記念館

上写真:旧記念館は平成20年12月27日に閉館し、レストラン併設のレトロステーションとして再開。
左手に現在の甘木鉄道、大刀洗駅への入り口があります。

個人の方が旧国鉄甘木線・大刀洗駅舎を利用して、太刀洗平和記念館として長年、管理運営されていました。館内には、さまざまな資料の他、若い特攻隊員の遺影も数多くあります。展示品が多いので、手狭な印象を受けますが、それだけに展示に協力して数々の品物を委託された遺族をはじめ多くの方達の思いが詰まっている印象を持ちました。

記念館スタッフにいただいた資料や筑前町作成「証言 大刀洗飛行場」を参考に大刀洗飛行場関係のページを作りました。この冊子は記念館でも販売されていますが、今も生々しい証言の数々が記録され、当時の雰囲気まで感じられる貴重な資料です。

館内を見学しているうちに、持って行き場のない怒りや涙がこみ上げてきます。若い人たちが「国の緊急事態だから自分の命を捧げて国に尽くす」という気持ちは尊いにしろ、そのような緊急事態を招かないシステムの構築こそが早急に必要です。

『終戦近くの頃、ベニヤ製飛行機を作り飛行場に並べていた』という話も耳にしましたが、戦争末期、すでに実戰に使える飛行機は少なかったのに、町の人たちは「大刀洗には飛行機があるけんアメリカ軍は来きらんさ」と考えていたそうですから、戦争の現実と、一般市民の認識のギャップの大きさ、そうなった原因について考えさせられます。

「ほどほどに、波風を立てない、なあなあ主義」ですませ、専門家任せで、物事をきちんと見つめず、オープンに意見を出し合う場を失くしていったことが一番の問題だとしたら・・・日本の現状にも、まったく同じ問題の根があるのではないかと考えます。

NHK報道では終戦前3ヶ月間で60万人が死亡したのに、最高指導者等6人による終戦へ向けた会議では明確な結論を出せなかった・・・。
最近の核燃料の処理についても、最終処分場さえ決められず、核燃料再処理の見込みが立たなくなっていても、関連する企業をつぶさないためにズルズルと結論を出さない・・・。必要だと言われながら国会の定数削減ができない・・・t等々。
当時と同じ体質が改善されていないことが証明されています。

平和記念館を訪れたことが、いろいろ考えるきっかけになりましたが、
新しい平和記念館には何度か行く間に、感じた問題点があります。



新しい平和記念館が、特攻や犠牲者を追悼するだけでなく、多数の遺品を見て、懐古趣味を満たすことに留まらず、当時の日本、太刀洗飛行場の抱えていた問題に気づかせてくれて、明日へのヒントが見つけられる、現在や未来の日本を考えるための貴重な資料館として存続して欲しいと切に願っています。

「主体性をもち、精神的にも独立した個人が、属している組織、業界などの壁を越え、共通言語を持つ知的共同体の一員として、一切の肩書なしに、自分の姓名と発言、行動の内容だけで社会の中で屹立しうる人間になること、他人をも、そういう眼で見られる人間になること-更に、そういう人物が、たとえ一人でもいい、この国に増えること」

(中野雄氏 著 「丸山眞男・人生の対話(文春文庫)」より引用 )

参考資料:
「証言 大刀洗飛行場」(筑前町発行)
「小郡市史第2巻 通史編 第7章」 
「大刀洗飛行場物語」桑原達三郎著 葦書房刊)
「筑紫れくいえむ」坂井美彦・ひろ子著 西日本新聞社刊

文責 中島正順

当時を知るための資料として:中島慎治(海軍少尉):多くの特攻機等が発進したフィリピン・クラーク基地近くで部隊全滅

home