
戦後、飛行場跡地、東端にできたキリンビール工場を、飛行場の規模を知る手がかりとして載せました。
第二次大戦中、大刀洗駅での1日の乗降客は1万人を越えたという。

B29爆撃機(「超空の要塞」(スーパー・フォートレス)と呼ばれる)が、初めて日本を空襲したのは昭和19年6月16日だった。中国四川省、成都を発進し八幡製鉄所がある北九州工業地帯を襲った。B29の性能は航続距離、4500kmだが、それでも成都から北九州への空襲が精一杯だったといわれる。
やがて米軍がサイパン・グアム・テニアンなどマリアナ諸島を占領してマリワナ基地がB29の発進基地となると、同年11月から東京を手始めに本土空襲を本格化した。


個人の敷地に残る、昭和20年建立の掩体壕(航空機格納)出入り口側、今はトラクター等の農具、軽乗用車を収納。
右は壕の上から左写真の出入り口側方向を撮影。コンクリート厚は30cm程度(飛行場と北飛行場の中間地点付近)
米軍の沖縄上陸作戦を前にした昭和20年3月27日、大刀洗基地は初めてB29編隊の波状攻撃を受けた。
午前10時頃、警戒警報発令。ラジオが「B29の編隊は豊後水道を西進中」と伝えていたが、人々は「どうせ、どこかの町に行くんだろう。大刀洗には来きらん。飛行機があるけん」と、悠長に構えていた。
空襲警報のサイレンが鳴り響いた時には、B29の編隊は既に太刀洗の上空に来ていた。
「ザーッ」という爆弾の風を切る音に続き、耳をつんざく炸裂音、地鳴り、ごう音、基地周辺の人々は、耳を押さえ地に伏し、初めての空襲にふるえ上がった。
この日、大刀洗を空襲したのはB29の編隊(74機)で、1機当り14発、合わせて約1000発以上の爆弾を投下した
(太刀洗平和記念館蔵の米軍資料)
*:この頃、米軍側は迎撃する日本軍戦闘機が200機位はあるだろうと予測していたらしいが、実際には、散発的に体当たり攻撃などをおこなったに過ぎないようだ)
飛行場格納庫、航空廠の機体整備工場、航空隊本部、兵舎などが爆破された。南方基地へ中継のため駐機していた爆撃機など46機も破壊・炎上してスクラップになった。
航空廠だけで死者125人、基地内の軍人・軍属・工員・周辺の民間人合わせた犠牲者は約1000人に達するともいわれるが、当時の報道管制と終戦当時の軍の資料焼却で、その数が明らかでない。
第1回空襲から4日目の3月31日、B29(106機)が再び大刀洗基地を爆撃。
攻撃目標は大刀洗製作所(飛行機製作工場)と第五航空教育隊(西部百部隊)
大刀洗製作所だけで600以上の爆弾跡があり、時限爆弾や焼夷弾も投下した。
この2回目の空襲で軍事施設は爆破・炎上し、大刀洗基地はほぼ壊滅、その機能を失った。
空襲の恐ろしさを知った隊員・工員・動員学生たちは、警戒警報と同時に、飛行機の掩体壕や三角兵舎があり、至るところにたこ壺が掘られていた花立山麓へ逃げ、それを見届けたかのように一帯も空襲を受けた。花立の集落は16軒の民家と薬師堂が焼失、5人が死亡、干潟の一里木付近では住家3軒が焼けて4人、赤松病院でも爆弾で患者3人が亡くなる。
2回目の空襲は避難が早かったものの、200~300人(実数不明)が死亡した。
2回目の空襲後、太刀洗基地の隊員たちは中隊単位で、立石、小郡、御原など周辺の各国民学校教室を兵舎代わりに使用した。特別攻撃隊隊員は2~3人に分散して立石村などの旧家に疎開した。
2009年7月17日放映されたNHK「九州沖縄スペシャル」では、昭和20年5月沖縄へ特攻出撃(大型重爆撃機の銃器を取り外し、巨大爆弾を積んだ4機出撃・2機は未帰還)その他「さくら弾機」という3tの爆弾を乗員席の後ろに搭載した特攻用飛行機も開発されていたということです。
米軍は、続行中の沖縄作戦を支援するねらいもあって、九州の特攻基地や中継基地を攻撃目標に、B29の大刀洗空襲が相次いだ。4月17日の第3回、4月18日の第4回に加え、大分沖にいた航空母艦の艦載機グラマン、米軍占領下の沖縄基地から来たP38、P51(Wikipedia)などの戦闘機が、大刀洗や小郡の上空を飛び回り、警報のサイレンが鳴らない日はなかったという。
グラマンやP51は軍事施設の他、西鉄大牟田線や甘木線の鉄道施設も襲い、電車から逃げる人々にも急降下して銃撃を加えた。
昭和20年7月28日、干潟の松岡酒造所(現・料亭「とびうめ」)にロケット弾が命中、屋根を突き抜けて酒樽の中に落ちたが警防団の活躍で火災は免れた。
同じ日、西鉄大牟田線津古駅そばの民家が銃撃され、家は全焼、女子児童1人が亡くなった。付近で電車の乗客2人も即死した。
8月8日の昼頃、西鉄大牟田線筑紫駅に滑り込んだ上り・下りの電車が数機の米軍機による攻撃を受けて64人の乗客の命が奪われた。
下り電車はほぼ満員の約200人、上り電車は約20人の乗客が乗っていた。
天井の銃弾の生々しい駅のホームの待合所は筑紫公民館に保存されている。
昭和20年4月18日未明、マリアナ基地を発進した約100機のB29が二手に分かれて南九州と大刀洗を襲った。大刀洗へは約30機の編隊による4度目の大刀洗空襲となった。
午前8時前、小郡上空で3機編隊の後尾機に、機銃弾を撃ち尽くした山本少尉機(山口県小月基地)の屠龍(Wikipedia)が体当たりした。B29は機体から火を噴き、小郡下町に墜落・炎上、大破した山本機は大保の陸軍被服廠福岡支所の建物に突き刺さるように不時着、山本少尉は移送先の久留米陸軍病院で死亡した。
この空中戦は多くの人が目撃した。B29の編隊に、豆粒のような2機の小型機が繰り返し攻撃を加えた。固唾を呑んで見ていると、小型機の1機は被弾、煙を吐いて視界から消えていった。
上昇するもう1機が最後尾のB29とすれ違って見えると、ガソリンに引火したB29の真っ赤な”火の玉”が浮かび上がった。小型機は弧を描くように下降していった。
B29は小郡下町、蒲池病院と国道500号を挟んだ民家の畑に落ち、黒煙を上げてくすぶり続けた。畑の物置下の防空壕に避難中の家族6人は直撃を受けて即死した。B29の搭乗員11人も全員死亡した。うち1人は女性通信兵、1人は少年兵だった。
この空中戦でB29を攻撃して被弾したもう一機は、山口県小月基地(現・下関市)の独立飛行83中隊長・湯木大尉の百式司令部偵察機Ⅲ改(略称・新司偵)で、小郡市と鳥栖市の境の秋光川堤防に落ちた。
湯木大尉は墜落時、天蓋が開かず焼死、後部座席の鈴伍長は放り出され、意識不明で病院に運ばれ一命を取り留めた。途中、送電線に当たり、ショックが緩和されたらしい(「小月会だより」平成4年11月1日付)
この空中戦は久留米でも目撃され、久留米から見に行った人は、「地面に墜落したB29の乗組員の死体が並べられていて、中に1人、はじめて見るアメリカ女性兵士の死体だった」という話が残っています。
また、久留米でも、田で農作業中のお百姓さんや子供がグラマンの銃撃に追いかけられ、櫨の木に隠れながら必死で逃れたという話も聴きました。


北飛行場の滑走路2本(昭和19年3月~20年3月完成)
右:主滑走路(重爆撃機用:長さ1.3km・幅50m)
左:補助滑走路(戦闘機用:長さ1.1km・幅10m)
・・・あたりまえですが、見事にまっすぐ・・・。

大刀洗飛行場空襲で飛行場傍の菊池武光銅像にも銃撃の弾痕が残っています。
(参考文献:「証言 大刀洗飛行場」(筑前町)
「小郡市史第2巻 通史編 第7章」
「大刀洗飛行場物語」桑原達三郎著 葦書房刊)
「筑紫れくいえむ」坂井美彦・ひろ子著 西日本新聞社刊)
「warbirds」のサイト
Wikipedia記事資料