菊池武光 大保原の戦い

菊池武光銅像菊池武光像横から

菊池武光像には第二次大戦中、大刀洗飛行場を襲った米軍機の銃撃による弾痕があるという。この像は大きく立派ですが、いつどのような経過で製作、 設置されたか、まだ調査しておりません。(現在、大刀洗公園内に展示されている)

銃弾痕は上写真の背後側、馬の腹部と台座に合計でも6~8ヶ所程度(素人目では・・)この像は飛行場北側に位置するので、飛行場の北側からの銃撃と考えられます。

11月の連休でしたが、ボランティアのガイドに引率された大勢の人の姿がありました。

北野・大刀洗・小郡map

大保原の戦い(筑後川の戦い)

正平14年(延文4年・1359)8月16日

時代背景

延元元年・建武3年(1336)8月光明天皇をたてた尊氏は

建武3(1336)年9月、後醍醐天皇、懐良親王を征西将軍として西国に赴かせた。

しばらくして北朝方は内部抗争がおこり2つに分裂
探題方(尊氏・高師直佐殿方(尊氏の弟直義・直冬親子
南朝方(宮方
3勢力の対立抗争と関連しながら離合集散を繰り返す内乱の時代に入った。

征西将軍・懐良親王

五条頼元は五摂家の一つだが、勅命により親王の補佐のために随従、親代わり、学問の師として教導扶育につとめた.

菊池・阿蘇氏に迎えられて隈府に入った。北九州には探題や少弐頼尚などを中心に、武家方の勢力があったが、菊池氏は次第に筑後に進出し、山門郡竹井城を中心に探題軍と戦った。

*********************************

この頃、尊氏の弟、直義の養子(直冬ただふゆ)が幕政を統轄していたが、直義排斥のクーデターを高師直兄弟がおこした。中国探題に赴任中の直冬は、肥後国に逃れ、尊氏党打倒を呼びかけると、探題の存在を不満としていた少弐頼尚、大友貞宗・宗像氏などの守護大名や有力御家人たちが呼応した。
この結果九州は一色範氏を中心とする探題方(尊氏党)・直冬を擁する佐殿方(直義党、直冬が左兵衛佐に任官したところから、かれを佐殿とよぶようになった)懐良親王をいただく宮方(南朝)に三分される形勢となった。

少弐氏も探題追放の為に宮方についていたことがあるが、九州の他の諸将も
同様で、当時、多くは宮方についていたものの、北朝についても探題方、佐殿方、の間で揺れ動いたようである。戦後の一族の安泰を図って、親族が分かれたこともあるようだ。

戦闘

(1)合戦の発端
正平14年(延文4年・1359)7月、征西将軍宮を大将として、新田一族、菊池一類が、大宰府へ攻め寄せてくるという情報を得た少弐頼尚は、敵を迎え撃とうと筑後に出陣した。

(2)両軍の陣容
少弐方:大将大宰筑後守頼尚・子息新少弐忠資・甥太宰筑後守頼泰、・・三原・秋月の一族、これらを宗徒の侍として、都合その数6万余騎、杜(えずり)の渡し(久留米市宮ノ陣町大社付近)を前にして味坂庄(現鯵坂)に陣を取った。

宮方:征西将軍宮懐良親王・洞院権大納言、竹林院三位中将・春日中納言、・・・新田の一族、・・・侍大将には菊池肥後守武光、子息肥後ノ次郎、・・これらを宋徒の兵として、其の勢都合八千余騎が高良山、柳坂、水縄山の三ヶ所布陣した。

(3)戦端
7月19日に、菊池はまず手勢5000騎を率いて筑後川を打ち渡り、少弐勢に向かって押し寄せたが、少弐頼尚は何を思ったのか、これには応戦せず、30町余り(約20km、実際には約9km)退いて大原(大保原)に陣を取った。

(4)決戦
(両軍対時のままこう着状態であったが)8月16日夜半、菊池勢はまず夜討ちに馴れた兵を300騎ばかり選りすぐって、山を越え水を渡って少弐勢の搦め手へ迂回させ、主力の兵7000騎を三手に分け、筑後川の端に沿って、河音に紛れて地形の険しい方から少弐陣へ接近した。正面大手の寄手が少弐本体に近づいたのを見るや、搦め手からの300人が一斉に敵陣へ討ち入り、三ヶ所同時に鬨の声を上げ、また十方に走り散って、敵陣へ散々に矢を射かけ、また後ろに回って控えた。

(5)終結
こうして当日卯の刻(午前6時)から酉の下刻(午後7時)まで、一息も継がずに戦った。少弐方は、新少弐(忠資)をはじめとして一族の者23人、頼みとする郎従400人、その外の軍勢3226人までが討たれたので、もはや叶わずと見て大宰府へ撤退し、宝万ガ嶽に引き揚げた。菊池も勝ちはしたものの、討ち死にした者を数えると1800余人あったといわれる。(両軍合わせて5000を越す死者となる)

正平8年、一色勢に攻められていた大宰府古浦城の頼尚を、菊池武光が救援に駆けつけ、(正平8年2月2日)筑前の針摺原(筑紫野市)における激戦で一色軍を破った。武光に助けられた際「今より後孫子七代に至るまで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放つこと有るべからず」と頼尚が血書したという熊野牛王の起請文を、大保原の戦いの時、菊池側の旗の蝉本に掲げて「情けなし、頼尚の心変わりよ」といって頼尚の不義理をなじったと「太平記」にはある。

近世に書かれた戦誌類には両軍にかなりの筑後衆の名が揚げられているが、その根拠はわからない。しかし、宮方の中に草野長門守・草野筑後前司の名があるが、征西将軍の豊後攻略(大保原合戦に先立つ3月~5月にかけて)に草野孫次郎永幸が従軍していることから宮方にいたことが確かめられる。「太平記」の少弐勢の中の草野筑後守・同肥後守は、松浦党の肥前草野氏である。

*正平8年(1353)2月2日の「鉢摺原の戦い」(筑紫野市)の菊池方の勝利によって、同年)4月5日、征西府はその拠点を菊地から高良山に移した。これから正平16年(1361)に征西府が大宰府進出を果たすまでの8年間征西府は筑後高良山にあったとされる。征西府が高良山にあったことから、懐良親王は「筑後宮」と呼ばれている。

「大保原合戦の必然性と意義」

征西府による本格的な大宰府進攻戦略であり、それを阻止しようとした少弐頼尚の防衛戦略であったと考えられる。
征西府の九州における最終目標は、大宰府の掌握だった。そのために、征西府は本拠を菊池から筑後高良山に移し、その後少弐氏・大友氏とも連携しながら、正平10年には鎮西管領一色氏を九州から追い払い、北部九州をほぼ席巻していた。
しかし、本拠地が大宰府にある小弐氏は、最初、同盟関係にあったため、大宰府に入れなかった。2年後の正平16年(1361)に征西府は大宰府入りを果たすことになるが、この合戦によって少弐軍が必死に抵抗して大打撃を与え、征西府の大宰府進出を2年遅らせたという見方も出来る。

*)「太平記」は文学的要素があり、特に南朝方と北朝方の軍勢の数などは誇張があり、実際にはほぼ互角、または南朝方の軍の方がやや多かったのではないかとも考えられている。

史跡等 

高卒都婆:

(大保原合戦の戦死者を葬った塚といわれる。)

昭和47年、小郡、大保原の地に自衛隊自動車訓練所の隊舎が建設された頃の話で、開設の頃、一帯は雑草の中にプレハブ教室が2棟立っているだけの情況だった。後に便所工事現場から幾体かの人骨が発掘されたのだが、この骨のたたりで幽霊が出ていたのではないかと、半年間は誰一人便所を使用しなかった。また、「水をくれ」と叫ぶ幽霊もでた。自衛隊はこの話を聞き、高卒都婆の入り口に「大保原決戦場の跡」と刻んだ碑を立て、清掃し、供養した。その後、地元に「史跡卒都婆を守る会」ができ、決戦記念日の8月に毎年供養し霊を慰めているという。

国分寺の地蔵菩薩来迎図板碑

大刀洗からこの一帯にはおびただしい戦死者が出て、その霊を慰めるために地蔵菩薩来迎図板碑が作られ、高良山に納められたといわれていますが、明治時代の神仏分離令で、板碑は高良山から宮ノ陣の国分寺に移され、現在に至っています。
*中央公論「日本の歴史・別巻・年表」によれば、神仏分離令は明治元年3月28日に出され、以後全国に廃仏毀釈運動が起こったとされている。

ウィキペディアによれば、神仏分離令(正式には神仏判然令)〔慶応4年3月13日(1868/4/5))から明治元年10月18日(1868/12/1)に出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称で、全国的に行われた〕

参考文献:福岡県の歴史(山川出版社 P196)
小郡市史第2巻

home