菊池武光 大保原の戦い


菊池武光銅像

太刀洗公園にある菊池武光像には第二次大戦中、大刀洗飛行場を襲った米軍機の銃撃による弾痕があるという。この像は大きく立派ですが、いつどのような経過で製作、 設置されたか、不明です。

銃弾痕は左写真の背後側、馬の腹部と台座に合計でも6~8ヶ所程度(素人目では・・)
像は飛行場北側に位置するので、飛行場の北側からの銃撃と考えられます。


大保原の戦い(大原合戦ともいう)正平14(延文4)1359年8月16日

近世に書かれた戦誌類には両軍にかなりの筑後衆の名が揚げられているが、その根拠はわからない。

しかし、宮方の中に草野長門守・草野筑後前司の名があるが、征西将軍の豊後攻略(大保原合戦に先立つ3月~5月にかけて)に草野孫次郎永幸が従軍していることから宮方にいたことが確かめられる。

「太平記」の少弐勢の中の草野筑後守・同肥後守は、松浦党の肥前草野氏である。

正平8(1353)年、一色勢に攻められていた大宰府古浦城の頼尚を、菊池武光が救援に駆けつけ、(正平8年2月2日)筑前の針摺原(筑紫野市)における激戦で一色軍を破ったことがあった。

武光に助けられた際「今より後孫子七代に至るまで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放つこと有るべからず」と頼尚が血書したという熊野牛王の起請文を、
大保原の戦いの時、菊池側の旗の蝉本に掲げて「情けなし、頼尚の心変わりよ」といって頼尚の不義理をなじったと「太平記」にはある。

*正平8年(1353)2月2日の「鉢摺原の戦い」(筑紫野市)の菊池方の勝利によって、
同年)4月5日、征西府はその拠点を菊地から高良山に移した。

これから正平16年(1361)に征西府が大宰府進出を果たすまでの8年間征西府は筑後高良山にあったとされる。

征西府が高良山にあったことから、懐良親王は「筑後宮」と呼ばれている。

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征西将軍・懐良親王

  • 延元3年・暦応元年(1338)秋、8歳の親王は熊野・伊予海賊の手をかり、瀬戸内海の島々を経て、
  • 康永元年(1342)5月、薩摩に着き、谷山郡司隆信の居城に入る。
  • 正平3年・貞和4年(1348)、親王は肥後宇土津に着く。
  • 正平10年・文和4年(1355)、豊後日田に向かい、また博多に入る。
  • 正平14年・延文4年(1359)、豊後の志賀頼房の城を攻める。

五条頼元は五摂家の一つだが、勅命により親王の補佐のために随従、親代わり、学問の師として教導扶育につとめた.

菊池・阿蘇氏に迎えられて隈府に入った。北九州には探題や少弐頼尚などを中心に、武家方の勢力があったが、菊池氏は次第に筑後に進出し、山門郡竹井城を中心に探題軍と戦った。

懐良親王の和歌2首

日にそへて
  遁れむとのみ思ふ身に
    いとどうき世のことしげきかな

しるやいかに
   よを秋風の吹くからに
         露もとまらぬわが心から

征西府が太宰府に入って10年目、建徳2年(1371)9月、信濃にいる兄 宗良に送ったとされる和歌(「李花集」と「新葉和歌集」に載せられている)、多分に厭世的な歌を詠んでいる。

また、親王は仏教に対する信仰が篤く、父母に対する孝心を示すものとして残る史料として以下のものが残されている

  • 正平3年(1348)4月、法華経普門品を書写して筑後高良玉垂宮に納めた
  • 正平24年(1369)8月16日、(父、後醍醐天皇の忌日)法華経を書写して石清水八幡宮に奉納した
  • 正平24年(1369)5月3日、法華経を書写して阿蘇社に納めた
  • 正平24年(1369)6月18、豊前大楽寺の般若心経に奥書を加え、これを重宝として門外不出を命じた
  • <<文中元年(1372)8月、太宰府陥落後、高良山に本営を移したが、2年後の文中3年(1374)8月、菊池武朝、武安らは筑後川を渡って福童原で北朝方と交戦。敗退して、9月17日再び高良山に退く。
    9月には、菊池一族とともに菊池に退却。菊池武光は文中2年に没したと考えられている>>
  • 天授4年(1378)3月29日、懐良の母とみなされている「霊照院禅尼」の遠忌に梵網経を書写し、肥前東妙寺に奉納したとみられる
  • 文中3年10月以降、懐良親王は、下向してきた良成親王に征西将軍の職を譲った。

時代背景

延元元年・建武3年(1336)8月光明天皇をたてた尊氏は

建武3(1336)年9月、後醍醐天皇、懐良親王を征西将軍として西国に赴かせた。

しばらくして北朝方は内部抗争がおこり2つに分裂

南朝方(宮方と3勢力の対立抗争と関連しながら離合集散を繰り返す内乱の時代に入る。

この頃、尊氏の弟、直義の養子(直冬:ただふゆ)が幕政を統轄していたが、直義排斥のクーデターを高師直兄弟がおこした。
中国探題に赴任中の直冬は、肥後国に逃れ、尊氏党打倒を呼びかけると、探題の存在を不満としていた少弐頼尚、大友貞宗・宗像氏などの守護大名や有力御家人たちが呼応した。
この結果、
九州は

少弐氏も探題追放の為に宮方についていたことがあるが、
九州の他の諸将も同様で、当時、多くは宮方についていたが、北朝方も探題方と佐殿方の間で揺れ動いたようだ。
戦後の一族安泰を図って、親族が分かれたこともあるようだ。

戦闘

(1)合戦の発端

正平14年(延文4年・1359)7月、征西将軍宮を大将として、新田一族、菊池一類が、大宰府へ攻め寄せるという情報を得た少弐頼尚は、敵を迎撃しようと筑後に出陣した。

(2)両軍の陣容

少弐方:大将大宰筑後守頼尚・子息新少弐忠資・甥太宰筑後守頼泰、・・三原・秋月の一族、これらを宗徒の侍として6万余騎、杜(えずり)の渡(久留米市宮ノ陣町大社付近)を前にして味坂庄(現鯵坂)に陣取った。

宮方:征西将軍宮懐良親王・洞院権大納言、竹林院三位中将・春日中納言、・・・新田の一族、・・・侍大将には菊池肥後守武光、子息肥後ノ次郎、・・これらを宋徒の兵として八千余騎が高良山、柳坂、水縄山の三ヶ所に布陣した。
(この時、懐良親王31歳・菊池武光38歳・五条頼元70歳)

(3)戦端

7月19日に、菊池はまず手勢5000騎を率いて筑後川を渡り、少弐勢に向かい押し寄せたが、
少弐頼尚は何を思ったか、これに応戦せず、30町余り(約20km、実際には約9km)退いて大原(現・小郡市役所に大原合戦碑)に陣を取った。

(4)決戦

(両軍対時のままこう着状態だったが)8月16日夜半、菊池勢はまず夜討ちに馴れた兵を300騎ほどを選りすぐり、山を越え水を渡り少弐勢の搦め手へ迂回させ、主力の兵7000騎を三手に分け、筑後川の端沿い、河音に紛れて地形の険しい方から少弐陣へ接近した。正面大手の寄手が少弐本体に近づいたのを見ると、搦め手から300人が一斉に敵陣へ討入り、三ヶ所同時に鬨の声を上げ、また十方に走り散って、敵陣へ散々に矢を射かけ、また後ろに回って控えた。

(5)終結

当日卯の刻(午前6時)から酉の下刻(午後7時)まで、一息も継がずに戦った。
少弐方は、新少弐(忠資)をはじめ一族の者23人、頼みとする郎従400人、その外の軍勢3226人までが討たれ、もはや叶わずと大宰府へ撤退し、宝万ガ嶽に引揚げた。
菊池も勝ったものの、討死した者が1800余人あったという。
両軍合わせて5000を越す死者

菊池武光像横から

「大保原合戦の必然性と意義」

九州における征西府の最終目標「大宰府掌握」のための本格的な進攻戦略で、阻止しようとした少弐頼尚等との戦いだった。

そのために征西府は本拠を菊池から筑後高良山に移し、その後少弐氏・大友氏とも連携しながら、正平10年には鎮西管領一色氏を九州から追い払い、北部九州をほぼ席巻していたが、本拠地が大宰府にあった小弐氏とは、当初、同盟関係にあったため、大宰府に入れなかった。

2年後の正平16年(1361)に征西府は大宰府入りを果たすが、大原合戦では少弐軍が必死に抵抗して大打撃を与え、征西府の大宰府進出を2年遅らせたという見方も出来る。

*)「太平記」は文学的要素があり、特に南朝方と北朝方の軍勢の数などは誇張があり、実際にはほぼ互角、または南朝方の軍の方がやや多かったのではないかとも考えられている。

史跡等 大保原(大原)合戦関連

高卒都婆:

(大保原合戦の戦死者を葬った塚といわれる。)
昭和47年、小郡、大保原の地に自衛隊自動車訓練所の隊舎が建設された頃の話で、
開設の頃、一帯は雑草の中にプレハブ教室が2棟立っているだけの情況だった。後に便所工事現場から幾体かの人骨が発掘されたのだが、この骨のたたりで幽霊が出ていたのではないかと、半年間は誰一人便所を使用しなかった。また、「水をくれ」と叫ぶ幽霊もでた。
自衛隊はこの話を聞き、高卒都婆の入り口に「大保原決戦場の跡」と刻んだ碑を立て、清掃し供養した。
その後、地元に「史跡卒都婆を守る会」ができ、決戦記念日の8月に毎年供養し霊を慰めているという。

「大保原合戦」の唄

正確な制作年代等は不明ですが、作詞者の佐々木信香は、旧制第7高等学校に籍を置いた人で、
この唄だけでなく日露戦争に関連した唄も作詞しているようです。
明治末期から大正頃までに作られたらしく、それなりに合戦の様子がうかがえます。

参考文献:福岡県の歴史(山川出版社 P196)
小郡市史第2巻
「皇子たちの南北朝」森茂暁著・中公新書

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