本田保神父・今村教会建設・海外移民

パウロ・本田保師と今村教会

1855(安政2)年
長崎に生まれ
1868(明1)年、13歳の時
浦上四番崩れという弾圧で、母と妹を含む91名と共に高知に流刑された。江ノ口の狭い牢に収容され、1日2回の粗末な食事(2合の屑米に食塩と白湯をかけて食べる)。
1869(明2)年
陽貴山に移される。
1870(明3)年
病気と飢餓に苦しみ、福音を説く宣教師になることが己の使命だと一人で脱走し、神戸のヴィリオン神父に保護され、その後横浜や東京の神学校で学ぶ。
1881(明14)年
現在地に間口6間、奥行き10間の最初の天主堂が建てられた。(ソーレ神父)
1884(明17)年
今村の信者数は1420人、年間受洗者数42人
1887(明20)年
信者数は1700人と急速に増えた
1887(明20)年3月
大浦天主堂において司祭に叙階され、長崎公教神学校で3年間教え、2年間熊本の八代で布教し、その後上五島江袋に転任した。
信者数の増加にあわせ聖堂を拡張した。
1896(明29)年9月
今村教会の主任司祭となる。立派な教会堂をつくることが、宣教布教の第一歩であるとの信念を固め、老朽教会の改築を計画した。(建設予算3万円)
本田師は自分の食事までも倹約したり、節約して貯蓄に努める一方、ドイツの雑誌「カトリッシェン・ミッショネン」にラテン語で寄稿(*下記)するなどの活動で、フランスやドイツの信者からも建築資金が寄付された。また今村から海外移民した人々の協力も得て、今村信徒の労働奉仕により工事が進められた。
1912(大1)年着工、1913(大2)年12月
双塔ロマネスク赤レンガ造りの現聖堂を完工、9日に献堂式が行われた。

本田師は(昭3)年までの32年間、主任司祭(在任善牧者)を務めた後、長崎蔭ノ尾教会に転任、聖堂を改築して司祭館を建てた。

1932(昭7)年2月、長崎医大病院にて永眠。

*)ドイツの布教雑誌「カトリッシェン・ミッショネン」への寄稿

本田神父の幼少時の浦上キリシタン流刑から神父への召し出しと宣教活動などについても記し、信徒のための天主堂建設と建設のための寄付をラテン語で書いて呼びかけたもの。

*)移民

今村の耕作反別は少ないのに、家族の人数は増えるばかりで生計は楽ではなかったと考えられるが、本田神父の「外地はほとんどカトリック系で気兼ねなく自由な信仰ができる」というすすめもあり、明治41年には信仰の安定を求めて先駆者数人がブラジルに移住し、明治45年にも移住し、大正3年には約100名の信者がやはりブラジルに移住した。 その後、移住先は、ブラジル、フィリピン、朝鮮、メキシコ、ペルー、南北アメリカへと広がり、昭和初期まで移住が続いたが、特に北米・南米への移住する家が多くなる。

特に、サンパウロを中心とする移住民による祈り、親睦、互助を目的とした「保和会」の活動がある。(保:本田保神父の「保」と伝道師青木和平氏の「和」から名前がついた)

参考資料

「西海の天主堂路」(著:井出道雄)

本田保氏胸像の碑文

「太刀洗町昔ものがたり」(平成9年太刀洗町教育委員会発行)

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「崩れ」について:

(平凡社の『世界大百科事典』より引用)

「肥前国浦上村山里(長崎市)で起こった4回のキリシタン検挙事件。崩れとは検挙事件をいう」とし、最後の「四番崩れ」について以下の解説がされています。
「1867 年(慶応3)勃発。信徒がキリシタン信仰を表明して寺請制度を拒否,68名が逮捕されたのに始まる。2年前大浦天主堂で再渡来した神父と出会い、表面仏教という潜伏態度を捨てたのである。ために幕府は異宗とせずキリシタン邪宗として取り扱い,信仰弾圧を外国公使団が抗議して外交問題化した。幕府倒壊後、明治政府もキリシタン禁制を掲げ、御前会議で浦上一村総流罪を決定、名古屋以西20藩に3384人を配流した。これを〈浦上教徒事件〉ともいう。1871年(明治4)米欧に向かった岩倉全権大使らは各国で信仰弾圧の非を説かれ、73年ようやくキリシタン禁制の高札を撤去した。信徒も釈放され事件は落着した。」

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