本田保神父・今村教会建設・海外移民

本田神父は長崎の人である。13歳の時、明治初年の浦上四番崩れといわれる弾圧にあい、捕らえられて四国の土佐に流され投獄されました。病気と飢餓に苦しんだ時、彼は、ここで殉教するよりも、逃げて福音を説く宣教師になることが、自分の使命であると決意を固めました。脱出に成功して神戸に渡り、一人の宣教師の庇護の下に神学校に学び、勉強を終えて司祭に叙階されました。その数年後、今村に赴任して来ます。

司祭として働いている間に、彼は立派な教会堂をつくることが、宣教布教の第一歩であるとの信念を固めたものの、資金調達の目途は容易ではありません。信者は貧しく、自分の財産もない。彼は、人が鯖を食べるときは、自分は安い鰯にするというような節約をして貯蓄につとめました。そして誠心誠意、実状を披瀝して、諸外国の信者に協力を懇願しました。ドイツを始め他国からの浄財がよせられ、移民の人々の協力もあって資金の目途もつきました。また、信者は労働を奉仕し大正元年(1912)建築工事が始まり、翌年12月9日、献堂式が行われ、ここに神父の夢が実現しました。

*)移民
今村の耕作反別は少ないのに、家族の人数は増えるばかりで生計は楽ではなかったといいます。
本田神父の「外地はほとんどカトリック系で気兼ねなく自由な信仰ができる」というすすめもあり明治時代から、ブラジル・ペルー・メキシコ・南北アメリカ等々の海外に移住する家が多くなりました。
特に、サンパウロを中心とする移住民による祈り、親睦、互助を目的とした「保和会」の活動がある。(保:本田保神父の「保」と伝道師青木和平氏の「和」から名前がついた)
これらの話からも今村出身の人々の信仰の絆の深さ・強さを感じることができます。

「太刀洗町昔ものがたり」
(平成9年太刀洗町教育委員会発行)
より引用

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「崩れ」について:

(平凡社の『世界大百科事典』より引用)

「肥前国浦上村山里(長崎市)で起こった4回のキリシタン検挙事件。崩れとは検挙事件をいう」とし、最後の「四番崩れ」について以下の解説がされています。
「1867 年(慶応3)勃発。信徒がキリシタン信仰を表明して寺請制度を拒否,68名が逮捕されたのに始まる。2年前大浦天主堂で再渡来した神父と出会い、表面仏教という潜伏態度を捨てたのである。ために幕府は異宗とせずキリシタン邪宗として取り扱い,信仰弾圧を外国公使団が抗議して外交問題化した。幕府倒壊後、明治政府もキリシタン禁制を掲げ、御前会議で浦上一村総流罪を決定、名古屋以西20藩に3384人を配流した。これを〈浦上教徒事件〉ともいう。1871年(明治4)米欧に向かった岩倉全権大使らは各国で信仰弾圧の非を説かれ、73年ようやくキリシタン禁制の高札を撤去した。信徒も釈放され事件は落着し た。」

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