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陸軍 大刀洗飛行場

歴史(1)

(参考)日本人による初飛行は、
1910(明治43年)12月19日、東京代々木練兵場(現代々木公園)で、
陸軍の徳川好敏大尉(午前7時55分・3000m、フランス製アンリ・ファルマン複葉機、50馬力)と
日野熊蔵大尉(同日午後・700m、ドイツ製ハンス・グラーデ単葉機、24馬力)という記録が残る。

1916(大正5年)

第一次大戦で飛行機の重要性が認識されたが、わが国でも飛行機の開発や飛行場の整備に乗り出すようになった。陸軍は北部九州の拠点として朝倉郡馬田村(甘木市→現・朝倉市)、三輪村(現・筑前町)、三井郡大刀洗村(現・大刀洗町)にまたがる山隈原に着目した。

当時の飛行機は風に弱かった。この地域は季節的にほぼ風向きが安定しているが、冷水峠付近は乱気流が多発)

この地域は下記の条件を満たしていた。

  • 大陸(中国・朝鮮)に近い
  • 海岸線より40Km 以上ある
    (艦砲撃射撃の弾が届かない)
  • 人家が少なく雑木林の広い土地がある
  • 周囲に障害物がない
  • 風向きがある程度一定している

~1919(大正8年)

トロッコと人力だけで総面積46万坪(福岡ドームの22倍)飛行場を完成させる。
200m×500mの滑走場(草原)があった。当時の飛行機は軽かったので、滑走路がなくても飛べた。

*)昭和18年10月:北飛行場が造られた。【重爆撃用滑走路1本(1.3km)と戦闘機用滑走路(1.1km)1本】

1919(大正8年)

11月:飛行第四航空隊が赴任する。配置された飛行機は
仏製複葉機「モーリス・ファルマン」(略称「モ式」)で偵察が任務だった。
(この大隊は大正11年(1922)に大刀洗飛行第四大隊となり、
大正14年には、さらに連隊に昇格した。
昭和15年9月まで約20年間滞在もっとも長い滞在となる)

12月:久留米憲兵隊 大刀洗憲兵分遣隊設置

赤レンガ塀で囲まれた憲兵隊分遣隊跡地
老朽化した赤レンガ塀の部分が大刀洗憲兵分遣隊跡

1921(大正10年)

2月:中央軌道 新町~飛行場前までレール敷設完成

1925(大正14年)

4月:昇格した大刀洗第四飛行連隊は台湾飛行第八連隊と同居(昭和2年、台湾屏東へ移動する)定員1500名、日本最大の飛行連隊となった。

当時配備された機種はモ式と同じフランス製のサルムソン2A2型(複座偵察機)で、モ式に比べてスピード・航続力・安定性が比較にならぬほど向上していた

*)サルムソン2A2型の画像:川崎重工 航空宇宙カンパニー

第四連隊営門跡に残る赤レンガの門
第四連隊営門(赤レンガの門の一部)
建物裏に西日本航空発祥記念碑と慰霊塔

東洋一の航空基地になる

1929(昭和3年)

5月:中国・天津動乱の時、初めて大刀洗から飛行機が大陸へ出動し、以後、昭和5年の済南事変に始まる、満州事変、上海事変へと事あるたびに日本人居留民保護のために大刀洗から前線へ出動した。その後、大刀洗ではいくつもの飛行隊が編成されたり、いろいろな飛行隊が来ては去って行った。作戦の用途により戦闘機・偵察機・爆撃機・輸送機などの軍用の新鋭機が開発された。

1936(昭和11年)朝日新聞社機「神風」の東京-ロンドン間新記録飛行(参考yuotube)
1936(昭和11年)2月26日、陸軍将校らが内閣総理大臣、内大臣らを襲撃・クーデター

1937(昭和12年)

九七式戦闘機(link::warbirds.jp)が配備される.
それまでの複葉機、九二式戦闘機と違った新鋭の単葉機だった。

複数の戦闘機が急上昇・急降下・宙返りなどを繰り返す飛行訓練は小郡の地上からも目撃できた

この九七式戦闘機は、昭和14年、中国東北部・満州、モンゴル国境付近でのノモンハン事件でも圧倒的数のソ連機と戦った。

97式戦闘機(博多湾から引き上げ復元された)
平成8年、博多湾から引上げ、修復された九七式戦闘機
(大刀洗平和記念館)
この時の飛行士は、後に特攻隊として出撃、
手紙等の遺品も展示されています

1937(昭和12年)7月

北京郊外の盧溝橋事件に端を発した日中戦争が始まると、大刀洗飛行第四連隊は海を渡った。同連隊は翌13年、飛行第四戦隊と改称した。

戦場の拡大とともに大刀洗は中継基地となり、多い時には200を超える飛行機が駐留したという。この頃から飛行場や航空隊に付随する施設が多くなり、航空兵養成学校の色彩が強くなった。

このようにして大刀洗の軍事・軍需施設は東洋一の規模となったが、昭和20年3月、B29の2回の空襲で壊滅する。

山本五十六は、早くから戦艦優位の時代が航空機重視の流れに変わると考えていた。

  • 1939年には約4500機を生産した。(当時のアメリカの軍用機生産は半分以下)
  • 1941年、真珠湾攻撃(日本時間12月8日)で航空機優位が証明され、アメリカは航空機生産に力を入れ、質・量共に充実させた。

*)アメリカ軍は、戦果確認を必ず行い、正確に記録し、それを常にチェックすることで、各種武器や戦術の開発改良だけでなく、システム全体の改善にまで発展させ、具体的な成果につなげていたという。

○大刀洗陸軍飛行学校【1940(昭和15年)10月~1945(20年)2月】

太刀洗陸軍飛行学校は、教育隊(基本操縦、操縦士養成)・生徒隊(地上整備課程)と併設の材料廠があった。

昭和19年、特別幹部候補生(特幹)、特別操縦見習士官の操縦教育も行った。

*)「陸軍特別幹部候補生」は海軍の「飛行予科練習生(予科練)」の陸軍版として昭和18年暮れに作られた制度で、中等学校卒業者に1年半ほどの「特訓」を施し、下士官に任ずるという制度で、全国に5ヵ所の訓練場が開かれ、「大刀洗」が最も喧伝された。

18の教育隊(飛行学校・分校)が主に西日本各地に点在していたがこれらの中枢的役割を果たし、本校と呼ばれた。

  • 当時の朝鮮に4つの教育隊(郡山・京城・太田・大邱)
  • 熊本県に5つ(隈庄・健軍・黒石原・玉名・菊池)
  • 宮崎県に3つ(都城・高鍋・木脇)
  • 福岡県には2つ(筑後・太刀洗)
  • その他、京都府久世郡(京都)、岡山県(岡山)、鹿児島県(特攻基地で知られる知覧)、佐賀県(映画「月光の夏」になった目達原)は分校と呼ばれた。

国富町・六野原飛行場(宮崎の戦争記録継承館)・・・六野原トーチカだけが残っている
大正15年、飛行第4連隊により、臨時滑走路約700メートルが完成
昭和18年11月 大刀洗陸軍飛行学校・木脇教育隊訓練場として1200m滑走路を完成


○生徒隊は本校生徒隊と甘木生徒隊の2つがあった

1943(昭和18年)10月、甘木市一木の野戦高射砲隊がニューギニアに出陣(500余名が出陣、終戦時50名程生存)した跡にできた甘木生徒隊。
多い時には2000人を越える15.6才の少航空兵が各地から入隊して来た。生徒隊で2年近くの過程を終えると、分校と呼ばれる西日本の18校に分かれ、そこで実機を使って飛行士としての訓練を受けた。

生徒隊員は、敵機との空中戦など出来る技術もなく、何とかまっすぐ飛べる程度。
それで爆弾を抱えて沖縄に特攻に向かった。・・
痛ましい話ですが、「国に命を捧げた勇士」と讃えるだけでなく、全体の状況を把握することが必要です)


○第五航空教育隊(通称 西部第百部隊)

第五航空教育隊門跡
第五航空教育隊門跡(右隣は現在ドラッグストア)
*)筑前町太刀洗平和記念館の入り口に移動されています。

第五航空教育隊東門跡
第五航空教育隊東門跡(道路の左側に忠魂碑:右の画像)

忠魂碑
第五航空教育隊東門傍の忠魂碑

1938(昭和13年)7月、最初は一個中隊から発足。戦闘で故障、破損した飛行機を修理・改造・整備できる航技兵を育成した。

航空に関する機体・エンジン・通信機・航法など各部門の教育が前・後期6ヶ月の短期養成で行われ、常時4000人が起居した。

教育課程を終えた隊員たちは日本各地や南方方面に転属した。

○大刀洗航空廠

(前身は飛行第四連隊の材料廠)

1938(昭和13年)7月、立川航空廠大刀洗支廠となる

1940(昭和15年)7月、大刀洗航空廠に昇格・役割は

  1. 前線で損傷した飛行機を修理して戦地へ送り出す仕事
  2. 燃料補給に立寄る飛行機整備、部品製造
  3. 飛行機を修理・整備する技術者養成

30棟の施設と2棟の大格納庫を建設。

同航空廠の燃料貯蔵施設(ドラム缶置き場)は小郡市松崎の雑木林2ヶ所にも設けられていた。

○技能者養成所

1942(昭和17年)には全国から500人が入所、終戦までに7期生が卒業した。

教育を終えた技能者は軍属となり、各地の飛行機工場の整備要員として活躍。技能者養成所発足当時、一時的に旧松崎宿の旅籠・油屋が独身寮に利用された。

航空機整備技術者の不足を補うために航空廠の西側に拡充強化された。
建物は実習工場棟や宿舎など約30棟に及び、西端は小郡市松崎に達した。

国民学校高等科を卒業した15、6歳の少年を専門別に教育、実習は航空廠で行う。

(平成7年11月、北鵜木公民館前に
「太刀洗陸軍航空廠技能者養成所之跡」碑
の建立)

○大刀洗航空機製作所

1937(昭和12年)大刀洗航空機製作所として発足、航空機用車輪を手始めに、順次、垂直舵・水平舵を製作した。

1942(昭和17年)には主翼・尾翼の製造も行った。

1943(昭和18年)になると操縦兵の養成が急がれ、練習機「赤トンボ」の生産に乗り出し、ピーク時は月産100台を突破。

昭和20年には爆撃機「飛龍」の組み立ても行っていた。

当時、同製作所では社員・工員・徴用工・女子挺身隊・動員学徒など合わせて1万4000人が三交代で働いていた。


第四連隊慰霊塔(当時の時計台)
慰霊碑は当時の時計台

台湾には福島の震災でもいち早く義捐金を頂くなど支援の手をさし延べてもらったほど、親日的な国ですが、旧太刀洗 平和記念館には第二次大戦中、戦死された方の遺品が展示されていました。(2013年9月)

参考:ネットから

芙蓉部隊

** 美濃部 正 **

1915年愛知県、現在の豊田市出身、6人兄弟の次男。刈谷中学を卒業
1937年(昭12)3月23日海軍兵学校64期卒業
1939年(昭14)11月、水上機母艦「千歳」に乗組(1年間ほど)
1944年(昭19)7月、夜間戦闘機隊指揮官としてフィリピン勤務:大西中将の指揮下
10月25日関行雄(初めての特攻)
12月1日、大西中将は少佐に昇進した美濃部正に、日本での芙蓉部隊の編成を命じた。
1945年(昭20)1月、飛行部隊3つを再編成、600数十人、戦闘機約150機。
藤枝海軍航空基地(焼津市・現航空自衛隊静浜基地)を本拠地とする。
1945年2月千葉県木更津基地での「沖縄戦に向けた指揮官作戦会議」で司令部方針「全軍特攻」に反論。
芙蓉部隊は、沖縄に近い鹿屋、岩川基地に展開、終戦までに81回、延べ786機が出撃、夜間攻撃を続けた。

****

芙蓉部隊の指揮官・美濃部少佐は、日本海軍連合艦隊司令部が決めた沖縄戦での「特攻」を「戦場を知らぬ参謀の殺人戦法」と非難し、
美化されて描かれる特攻について「感情的な部分だけで語ってはいけない」と考えていた。
1945年8月、鹿児島県岩川基地では、敗戦を受け入れられず、自ら命を絶つ者もいたが、
「とにかく父母の元に帰れ」と、残っていた飛行機で一刻も早く故郷に帰るよう隊員に指示したという。

(静岡新聞SBS・特攻せず 夜襲部隊「芙蓉」)

戦没者数:

政府は1963年5月14日の閣議決定で戦没者の数を約310万人
厚生労働省は戦没者の数を約240万としている
特攻隊関連の死者数:総計 14,009名
海軍:4,156名
陸軍:1,689名
特攻作戦関連(陸・海):8,164名
民間人:空襲や原子爆弾投下等で死亡(総計80万人)
その内訳:
国内50万人(原爆の死者約20万人・一般空襲の死者約20万人・沖縄戦の死者約10万人)
海外30万人

資料をみても、民間犠牲者は約24万ー100万人で、確定できない数字、その幅の大きさが戦争の恐ろしさ・・・。

全国的調査では、数万人の違いはあるという。


=== あとがき 諸々===

大きな戦争です。一面的な見方をせず、多くの資料から学ぶ必要があります。

○ 平和記念館を訪ね、職員の方に尋ね、資料等を読み、現在も残る史跡等を訪ね、整理する時に、記念館で耳にした若者の言葉「昔の人は目的があって良かったなあ」には大変驚き、取り扱いに大変悩みました。

○ 現地保存が困難であっても、点在していた史跡が消えたり移動すれば、土地の歴史・匂いが消えます。

○ 戦争が前途ある若人達の犠牲の上で継続されたこと、周辺地域の民間人、学童を含め、飛行場に関わった、多くの犠牲者を思って構成しました。資料の活用・表現も未熟ですが、意図するところをご理解ください。

○ 戦死した叔父に関する資料を集める中で「なぜ、戦争になったのか?」・・・疑問が浮かびます。
平和な未来のために必要な指針が「犠牲者の人たちを悼み、平和を祈り続ける」だけで充分か?
そもそも人はなぜ争うのか?そこから考える必要があるのではないのでしょうか。

○ 最近、戦後処理に関し、ドイツは連合軍による裁判の後、当時の政治指導者等の活動を含め、徹底的に戦争責任が追及され、罪を暴いたことを知りました。
日本では、連合国による裁判で終ってしまった印象で、日本人自身がきちんと政治指導者や統治機構等を総括し議論をして改革するべきだったと思っています。基本的には戦後も変わらない部分が残り、現在でも、その弊害が残っているようです。

○ 「アメリカは憎いと云うより強い国。その大国に無謀にも宣戦布告した小国、日本の政治が間違っていたと思います。空威張りです!」(「かたりつぐ会」"戦場 花立村より"抜粋引用)

個人的なことですが、近現代の歴史や政治について十分な知識がありません。基礎知識が不十分なのです。もっと学ばなければ・・・。

*********** 参考文献 ***********

「証言 大刀洗飛行場」(筑前町)
「小郡市史第2巻 通史編 第7章」
「大刀洗飛行場物語」桑原達三郎著 葦書房刊)
「筑紫れくいえむ」坂井美彦・ひろ子著 西日本新聞社刊)

*********** 参考画像・動画など(link) ***********


第一次大戦、青島攻略によるドイツ軍俘虜約5000名を国内に分散、収容した時、
久留米収容所が造られました。(ドイツ兵俘虜慰霊碑)現在の久留米にも影響が。

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