享保の大飢饉

江戸時代中期に起こった飢饉で、江戸四大飢饉(寛永・享保・天明・天保)の一つ。

概要

1731年(享保16年)末より天候が悪く、

1732年(享保17年)悪天候が続き、夏、冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地が凶作に見舞われた。(中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯がひどかった)
梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。
秋には、西日本の水稲は、ウンカに痛めつけられ、ゴマの油やクジラの油を田に流してこれを防いだが、手遅れで効果がなかった。

そこで各地では稲に虫がつくと虫祈祷ということをした。
今日でも、西日本には田植えのあとに虫送りをするところが多いが、
それは享保の飢饉の被害の大きかった地方とほぼ範囲が一致しているという。
享保の飢饉のときの虫送り祈祷が年中行事化したものだろうと推測される。

*)虫祈祷はまたサネモリ送りという地方があり、松明に火をつけて、田のほとりを「ウンカの神さま送った、サネモリさま送った」とか「後生よ、後生よ、サネモリどんの後生よ」と、鉦をたたいてとなえ歩いた。

昔、斉藤実盛が合戦の時、稲につまずいて殺されたので、その遺恨によって稲を食い荒らす虫になったという伝説が各地にのこっているが、この実盛の怨霊を追いはらうために、このような文句をとなえながら実盛人形を担ぎ歩いたのち海へ流し、僧は大般若経をよみ、神主は祝詞をあげた。
ところによっては道中で太鼓を叩いたり、鉄砲を撃ったりしたが、その音の聞こえるところでは、すべての虫が死んでしまうと信じられていたので、益虫には垣をしなければならないとして、蜜蜂小屋の周りには竹を切って立て莚で囲ったという。

・・・・当時、それ以外に効き目のある方法を持たなかった人々は祈祷にすがり、それに希望をつなぐほかなかったのである。

このウンカによる被害のため、物成が例年の半分以下というのは近畿以西で46藩にも及んだ。46藩の合計したそれ以前、5年間の平均収穫高は236万石だが、この年の収穫は僅27%弱の63万石弱だった。中国・四国・九州で264万6千人の民衆が食うものにこと欠いた。餓死者は12,172人(「日本災異記」)にも達した。(『徳川実紀』によれば餓死者969,900人。他の記録では16万9900人ともあり違いが大きすぎ、確定するためのよりどころもない)

1733年(享保18年)正月、飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが行われた。

この飢饉を教訓に、時の将軍徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を奨励した。
青木昆陽は社倉を設けて飢饉に備えることをすすめ、稗を貯えるのが良いといっている。(米なら数年の後に悪代官が売り払うおそれがあった)また日本は海国だから豊富なアラメ・海草の類を貯蔵するのがよいともいっている。)


石見国大森の代官・井戸平左衛門

幕府の命を待たずに官庫を開いて飢民を救ったために代官職を免じられ、迷惑のかかることを恐れて切腹したが、彼が薩摩から取り寄せ、大森地方の農民に試作させた甘藷は、その後次第に広がり、重要な備荒作物となった。

(以上は「日本残酷物語 1」宮本常一等が監修 平凡社ライブラリー)


下見(あさみ)吉十郎秀譽(ひでたか)

寛文13年(1673年)-宝暦5年(1755年)
自分の幼子4人を、皆亡くしたことから六部僧になり、
正徳元年(1711年)瀬戸内海の大三島から諸国行脚に出た。

広島、京都、大阪→九州を巡っていたが、11月頃、薩摩国の伊集院村農民の家で振舞われた甘藷(サツマイモ)がやせた土地でも簡単に栽培できることを知り、大規模な飢饉になることの多かった故郷で育てるために、サツマイモの種芋を譲って欲しいと頼んだ。当時の薩摩藩は芋の持ち出しを固く禁止していたが、ついに種芋を譲り受けた。
仏像に穴を空けて種芋を隠し、命懸けで薩摩国から持ち出した吉十郎は、種芋を大三島へ持ち帰り、島の農民に配って栽培法を伝授した。このため、享保の大飢饉の際も、大三島だけがサツマイモのおかげで餓死者を出すことはなく、余った米を伊予松山藩に献上する余裕があった。

(Wikipediaより抜粋)