「掬び塚」と俳人・塩足市山顕彰碑:(「片の瀬橋」近く)

丈日堂(当時、志太野坡や浮風らが滞在、句会が開かれた場所ですが、現在のどの地か?)

俳人・塩足市山の顕彰碑

うぐいすや旭こごらぬ松の色 市山

塩足市山は、貞享元年(1864)竹野郡塩足村の大庄屋の家に生まれた。
通称宇左衛門、名は清瑞。
正徳2年(1712)芭蕉門下十哲の一人、志太野坡に入門し、野坡をしばしば、その亭に迎え、その教えを受けた。 市山は、片の瀬の渡船場の近くに丈日堂を建て、多くの俳人と雅交を楽しんだ。

現在、この地に建っている「掬び塚(むすびづか)」は、市山の師、野坡の霊を祭るため丈日堂のそばに、元文5年(1740)5月ごろに建てられていたものである。「掬び塚」は、野坡の最後の句「若水や冬は薬に結びしを」から取られたものである。

市山には著書として「むすび塚集」のほかに「百曲(ももすじり)」(雪刀・秋虎と共編)がある。

市山の志は、その子の秀山に引き継がれ、この地方に多くの俳人を育てた。近世女流俳人である町内唐島出身の諸九尼もまた、この丈日堂で学んだひとりである。

平成6年3月 田主丸町教育委員会

上図:「六俳夢中図(筆:梅従門梅子)」本庄弘直氏蔵(市山子孫)
中央に高津野々翁(野坡)の姿と句、下右から湖白(直方)、秋虎(久留米)、市山(善導寺)、木而(善導寺)、猪路(筑前長淵:画面左外)

諸九尼の生誕地

「諸九尼の句碑」

諸九尼の句碑
「いつとなし ほつれし笠や 秋の風」
田主丸複合文化施設「そよ風ホール」・図書館の庭に設置されています。

湖白庵諸九尼

正徳4年(1714)竹野郡・唐島村庄屋、永松八郎右衛門の4女(なみ)として生まれた。長じて同族の中原村庄屋永松万右衛門に嫁ぐ。

元文6年(1741)塩足村の俳人、市山の建てた「丈日堂」(片の瀬)に滞在中の有井湖白(芭蕉十哲・志田野坡の高弟・元直方藩士。のち浮風とも号する。)の許に入門する。
程なく湖白、市山に認められるが、周囲の羨望は汚名へと転じた。30歳のころ、故郷を捨てて、湖白と共に上方に走る。

上京(註:大阪・京都に住む)した二人は俳諧に専念し、芭蕉、野坡を顕彰する松葉塚を大阪、四天王寺に建立するが、また、野坡の追善句集刊行等を果たしたが、諸九尼はこれに内助の功をつくし、自らもまた句作の研鑽を重ねた。湖白はその労苦により死去、諸九尼は剃髪して蘇天と号する。

その後、諸九尼は

碑表の句は、芭蕉追慕の旅の折り、白河の関にて詠まれたものである。

*)丈日堂:当時、地域の文化サロンのようなものだったらしく、志田野坡も滞在したらしい。
*)湖白庵浮風:元直方藩の藩士有井軍治義保。父(書記・弓術師範)と同じく弓術に秀でていたが吐血したことで、甥に家督を譲り、俳諧の道を目指したが、生計をたてるために医術を覚えた。(のち浮風とも号する)芭蕉、野坡二翁の松葉塚を大阪の四天王寺に建立。また野坡の追善句集刊行等を果たした。


志太 野坡寛文2年1月3日(1662年2月21日) - 元文5年1月3日(1740年1月31日)

掬び塚
善導寺境内の志太野坡の墓碑

越前(福井県)出身。江戸時代前期-中期の俳人。

元々は江戸の両替商、三井越後屋に奉公、番頭までなったが、
はじめ宝井其角に俳諧を学び、元禄6年(1693)松尾芭蕉に入門。
蕉門十哲の一人とされ「軽み」の俳風では随一ともいわれた。

元禄7年(1694)小泉孤屋らと「炭俵」を編集。
元禄11年頃-14年、長崎に滞在

宝永元年、芭蕉没後、大阪に移り俳諧に専念した。中国・九州地方を行脚し,西国四国
中国に1000人を越えるほどの門弟を擁した。
九州へは宝永3年(1706)・5年(1708)・7年(1710)箱崎で芭蕉17回忌の一夜百歌仙を興行
編著に「放生日」。

俳文「登高良山」:元禄16年(1703)2月
紙本墨書巻子装 1巻 長さ190cm
木版彩色刷雲母刷模様入料紙
この時の道程:
久留米→朝妻→府中→御手洗橋→高良神社→中谷→愛宕

元文5年1月3日死去。79歳。

姓は志田・別姓に竹田。通称は弥助。
別号に野馬,樗子,浅生(あさお)庵など。

左画像:掬び塚(片の瀬橋そば)「浅生庵」・右画像:志太野坡慰霊碑は善導寺境内、山門を入った左手塀際にあります。

現代では考えられない程、故人を偲ぶ気持ちが強く、その霊を祀ったようです。