勤王倒幕の理論実践の先駆的指導者
文化10年(1813)3月7日出生。父旋臣没後、11歳で水天宮祠官となり、母と6人の妹弟を双肩にする苦境から始まった。
勤皇倒幕を主唱し、また藩政改革を企て、その罪で嘉永5年から11年、山梔窩に幽居する。勤王派の頭領として、元治元年(1864)7月21日、蛤御門に戦って破れ、天王山にて自刃した。
20歳の時、京に上り従五位下に叙され、和泉守に任ぜられたので泉州と称した。号は紫灘又霜江。
国学を宮崎信敦に、漢学を崎門学統の宮原国綸に学んだ。思想は神道観の上に立つ朝廷崇敬と会沢伯民の水戸学を根底とした。国典、漢籍に通じ、また武技に優れ、詩歌音楽まで学び、特に和歌にすぐれた。皇室の衰微をなげき、楠公に私淑し、例年楠公祭を行って、その孤忠をしのんだ。
尊皇攘夷の志を持ち、政権の皇室統一と国威宣揚、勤王の大儀を唱えた。
文久2年2月16日、白昼堂々と薩摩に脱藩。薩摩から大阪に入り、倒幕の兵を挙げようとしたが、伏見寺田屋の変で挫折し、捕らえられた保臣は、7月久留米に護送された。
文久3年許されて、瀬下の自宅に帰ったが、4月13日藩論急変し、同志28人ことごとく3度目の幽囚となり、生命も危うくなったが、京都、長州に通報され、内勅も下って5月17日解放され、同志28人は命ぜられて朝廷親衛兵として京に上る。途中、長州で毛利公父子及び同藩の同志と時局を論じ、策を練って6月京都に着き、命ぜられて学習院徴士として京に上る。
当時、薩摩藩は、姉小路卿暗殺の責任を問われ、御所の警備を解かれ、長州毛利公父子が政局の主導権を握っていた。
久留米藩の志士は長州藩と親しく結んでいて、約200名の久留米藩士が上京活動していた(指導者は保臣)
同年8月、保臣の考えどおり大和行幸の策が進められていたが、8月18日の政変で大和行幸は中止、長州藩の御所警備は解かれて、薩摩・会津がこれに代り、三条実美以下の七卿は長州に落ちた。保臣も七卿に従い、日夜その対策に参加した。
彼の進言で、
長州藩主は国老福原越後、国司信濃をして兵を率いて京に上る。
保臣は久坂玄瑞と共に、各藩浪士で組織した清側義軍300名を指揮して京に上る。
元治元年(1864)6月24日清側義軍は山崎に到着し、天王山に陣営を構え、「七卿復職、長州公の入朝、攘夷の発令の哀願書」を閣老稲葉美濃守に託したが上に通じなかった。
19日より戦端は開かれ、長州軍も清側義軍も敗れた。和泉守は21日、挙兵の責を取り、「大山の峯の岩根に埋めにけりわがとしつきの大和魂」の辞世を遺し、同志17人と共に天王山で割腹した。享年52歳。
彼等の屍は宝寺塔前に埋められたが、いつしか「残念さん」といわれてその墓を参詣する者が後を絶たなくなったので、幕府は衆人の登山を禁じ、その屍を宝寺山下の竹林に転埋した。
明治元年9月、保臣の嗣子(佐忠)が久留米藩主の命により17士の遺骨を竹林中から収集し、割腹の地に改葬した。
久留米人物誌余禄