(1813~64)

おことわり:作り始めて、補充の必要なことを発見。鋭意努力中ですが、かなり時間がかかりそうです。
ある程度まとまったら更新していく予定です。

真木和泉守 保臣

勤王倒幕の理論実践の先駆的指導者

文化10年(1813) 3月7日、水天宮神主・真木家の長男として出生。
文政元年(1818)
江戸赤羽藩邸に水天宮の分霊を遷した功で、父・旋臣は高取中小姓格に列す。

幼少より「絵本楠公記」をくり返し読み、大きな影響を受けている。

・三潴郡姪池村・三島神社の祠官、宮崎阿波守信敦に皇典・国学を学ぶ。
*)宮崎阿波守は、京都で香川景樹に和歌を学び、久留米の国学を興した人、父・旋臣の親友。大石神社祠官・舟曳伊勢守の兄。
舟曳伊勢守の二人の子が、大磁と厳主(鉄門)
和泉守は阿波守の所へ12kmの道を舟曳兄弟と通う。
阿波守の「神官は朝廷に直属する」という思想が和泉に伝わる。
文政6年(1824)11歳、6月、父が病没。
京都吉田家より神道裁許状を受け、家職祠官を継ぐ。母・弟妹6人を抱える。
天保2年(1831)19才、配睦子をめとる。
天保3年(1832)20才、
京都で大宮司の資格を得、神祇伯家を通じて従五位下に叙せられ、和泉守に補任された。「従五位下大宮司真木和泉守朝臣」泉州と称し号は紫灘、又霜江。
天保14年(1843)31才、
藩校明善堂の考課で成績特別優秀、御前開講の中に選ばれる。
・崎門学派(山崎闇斎の学問系譜)・宮原桑州(国綸)に漢学を学ぶ。
*)宮原南陸(桑州の父)は合原窓南の学問を継ぎ、崎門学を盛んにした人。
*)崎門学派は、楠正成を理想とし、幕府政治を拒否する
弘化元年(1844)32才、7月、水戸に遊学、会沢安(正志斎)を訪ねる。
弘化3年(1846)34才、藩主有馬頼永に上書し、藩政改革意見を述べる。
弘化4年(1847)35才、9月、孝明天皇の即位式を拝観。(野宮定祥、定功、三条実萬と交誼を得る)
嘉永4年(1851)39才、藩主有馬慶頼に上書し、藩政改革意見を述べる。
嘉永5年(1852)40才、
2月、稲次因幡(正訓)、木村三郎、水野丹後(正名)らと藩政改革の企て(執政・有馬監物らの排除)に失敗、
5月、水田村の弟・大鳥居啓太の家に蟄居を命ぜられた(嘉永の獄)
10月、水田村 青年の教育を始める。

筑後市水田の梔子家

山梔窩(筑後市水田):四畳・四畳半の二間
嘉永6年-文久2年(1853-1862)の幽居

嘉永6年(1853)、41歳の時、山梔窩が完成。
はじめ、弟・大鳥居理兵衛が私塾で教えていたが、
蟄居した和泉守に教えを乞う者が増えた。
生徒の大半は豪農の子弟や下級神官等、これに久留米藩士(軽輩が多かったが)も訪問するようになったが、
彼等の多くは、和泉守の手足となり、活動に命を捧げた。

和泉守は楠正成に私淑し、例年、楠公祭を行った。
思想は神道観の上に立つ朝廷崇敬と会沢安(正志斎)の水戸学を根底とした。
国典、漢籍に通じ、武技にも優れ、詩歌音楽まで学び、特に和歌にすぐれた。
政権の皇室統一と国威宣揚、勤王の大儀を唱えた。

*)和泉守は、当時の国内外の情勢(阿片戦争・外国船の来航:外圧の高まり)を考えれば、公武合体では共倒れになるから、朝廷中心で国をまとめなければならぬと判断していたようだ。。


安政5年(1858)、46歳、
6月、三条実萬に上書。10月、倒幕論「大夢記」、この頃「経緯愚説
万延元年(1860)、48歳、
5月、倒幕策「密書草案」9月、平野國臣、初めて来訪
文久2年(1862)、50歳
2月16日、水田から白昼堂々と薩摩に脱藩。
2月19日、大鳥居理兵衛信臣(46歳:和泉守の弟・水田天満宮の養子)筑前黒崎驛、駕籠の中で割腹
蟄居中の兄の面倒をみたが(監督責任もあった)、兄と共に行動しようと京へ向うが藩吏に捕われた。
4月21日、薩摩から大阪に入り
4月21日、大事決行の会議(宿の隣、薩摩廿八番長屋)

和泉守は、詔勅を下された久光を尊王倒幕の首領にして倒幕を決行するべき(上策)と考えていたが、やむを得ず、推挙を受けて第一隊指揮者となる。

4月23日、伏見・寺田屋事件で捕われ、脱藩後上京した真木和泉と息子・菊四郎、酒井傳次郎、鶴田陶司、原道太、中垣健太郎、荒巻羊三郎、吉武助左衛門、古賀簡ニ、渕上謙三は7月、久留米藩に護送された。
5月7日夜、深野孫兵衛成久は京都で久留米藩佐幕派に暗殺された。彼は、和泉守を解放させるため、小川佐吉と二人で脱藩、京都の長州藩邸に行くなどの活動をした。
文久3年(1863)、51歳、許されて、瀬下の自宅に帰ったが、
4月13日、久留米では藩論が急変、3度目の幽囚となり、命も危なかったが、周囲の運動で(*註)解放され、
5月17日、同志28人は朝廷親衛兵を命ぜられて京に上るが、真木和泉守は途中、長州藩の毛利公父子等と時局を論じている。

当時、薩摩藩は、姉小路卿暗殺の責任を問われ、御所警備を解かれ、長州・毛利公父子が政局の主導権を握っていた。

久留米藩の志士は長州藩と親密な関係で、約200名の久留米藩士は、京で活動していた(指導者は保臣)

文久3年(1863)、51歳、8月、真木和泉守の考えどおり大和行幸の策が進められていたが、
8月13日、天誅組の蜂起(詳しくは山梔窩 )天誅組は大和行幸の先触れとして蜂起したのだが、8・18の政変で朝廷の方針が逆転し、反乱軍とみなされ、幕府・諸藩にも追及されることになった。
8月18日の政変で大和行幸は中止。御所警備は、長州藩から薩摩・会津に代えられた。三条実美以下の七卿は長州に落ちのびた。真木和泉守も七卿に従った。
9月、毛利敬親(慶親)に京都奪回説を説く
元治元年(1864)、52歳、6月、和泉守は久坂玄瑞と、各藩浪士で組織した清側義軍300名を指揮して京に上る。
清側義軍は山崎に到着、天王山に陣営を構え、「七卿復職、長州公の入朝、攘夷の発令の哀願書」を閣老・稲葉美濃守に託したが上には通じなかった。
和泉守は長州藩主・毛利敬親(慶親)に進言、国老・福原越後と国司信濃が兵を率いて京へ
7月19日より戦端を開く「禁門の変」で薩摩軍(西郷隆盛)に、清側義軍は敗れた。
7月21日、和泉守は挙兵の責任を取り、「大山の峯の岩根に埋めにけりわがとしつきの大和魂」の辞世を三条実美に遺し、同志16人と共に天王山で割腹した。享年52歳。

*注)4月13日、久留米藩論の急変で藩内保守派によって真木和泉が投獄された時、
同藩の小川佐吉、深野孫兵衛の2人は脱藩上京、長州藩・寺島忠三郎等に助けを求めたので、長州藩は三條実美に掛け合い、真木和泉らについて穏便に取計らうようにとの朝命が長州藩に出された。


5月10日、中山忠光・長州藩の?は長州・肥後の藩士計9名を伴い、和泉守を解放し京都へ呼び戻すために久留米藩へ出向いた(津和野藩主・亀井慈鑑は手紙で説得)
5月12日、久留米藩は城門を閉じ、石野道衛、松岡傳十郎(2人は明治2年1月25日、徳雲寺で切腹)が家老に掛け合ったが返事がなかった。
5月13日、怒った忠光が帰るのを松崎まで追いかけ、
5月14日、呼び戻した忠光に詫びを入れ
5月17日、ようやく、真木和泉以下20数名は釈放された。
この件で志士たちは忠光を主将格と仰ぐようになった。(中山忠光は明治天皇の叔父にあたる人)

岩崎英重編「維新日乗纂輯第ニ」加藤任重の日記(日本史籍協会)所収
真木和泉保臣先生「殉道百三十年誌」真木和泉守先生没後百三十年顕彰事業推進委員会

関連記事:山川招魂社(御井町)


天王山以後

home