(ほく)(ぜい)()(じゅく)

漢学者 江碕済 (1845年-1926年)
漢学者 江碕済 (1845年-1926年)

久留米藩士の家に生まれ、10歳で藩校明善堂に入り教育を受ける。
17歳の時に漢学者加藤米山に漢学を学ぶ。
矢部・黒木・北川内で塾を開き、評判となり多くの若者がその教えを乞うた。

詩文に優れた漢学の大家として、当時福岡県下において右に出る者はいなかった。

明治5年、日本政府は近代国家建設のためには教育制度の確立が急務と学制を発布しました。
「学問は身を立つるの財本(もとで)」として、すべての人が学ばなければならないとしたのです。

しかし、当時は学校建築費も学費もすべて地域住民の手で負担しなければならないうえ、教育に携わる人材も不足していた時代でした。

そのような中、江碕済という教育者は、八女郡の僻地で矢部・黒木・北川内で塾を開いて青年教育に心血をそそぎ、数多くの逸材を輩出しました。

なかでも北川内村で開いた北汭義塾は16年間続き、
向学心に燃える多くの青年達が塾の門をたたきました。

目次 (クリックすれば1~7の各章へ移動します)

『1.藩難を逃れ八女の山奥へ』

漢学者・江碕済の生い立ち

江碕済は弘化2年(1845年)4月26日、久留米藩の下級武士森山栄太郎の長男として庄町中ノ丁(現・久留米市荘島町)に生れました。(成人して江崎済と名乗る)

幼い頃から群を抜いて優秀で、10歳で藩校明善堂(現・県立明善高等学校)に入り教育を受けます。17歳の時、漢学者加藤米山の塾に入り約5年間漢学を学びますが、その間の猛烈な勉強ぶりに友人たちは驚いたそうです。
家では四畳半の部屋閉じこもり、寝食を忘れて漢文の書籍を読破、夏は行灯の下で蚊帳も吊らず、寝床も敷かないで徹夜することもまれではありませんでした。

20歳の時には明善堂の居寮生(藩が秀才を特別に選抜し藩費で学問を研究させる制度)に抜擢、副寮長に起用されました。

江碕がこのようにひたすら漢学に精進しているうちに、日本の内外の情勢は幕末から明治の時代へと一大変革期を迎えていました。

江碕が23歳の時(1867年)、大政奉還により新政府が誕生します。
久留米藩は、初代有馬豊氏以来徳川幕府の九州各藩に対する監視的役割をおび、幕府とは親密な関係を保っていました。しかし幕末のころになると藩内でも佐幕派(幕府側)と尊皇攘夷派(天皇側)の対立が激化し、抗争の犠牲となって多くの人材が失われていきました。

抗争の世からはずれて学問一筋の道をたどってきた江碕にとっても、憂慮すべきことでした。江碕は明治2年に久留米を出て筑前の亀井塾へ行きます。さらに東京へ出て安井息軒の塾に入り、斬新な空気に触れ翌年には帰省しました。

大楽事件の余波を恐れ矢部山中へ

そんななか明治4年(1872年)、藩を揺るがす大楽事件が勃発、明治政府に反抗し山口県庁を襲った奇兵隊の大楽源太郎をかくまった罪で、久留米藩の有能な士が明治政府によって一網打尽、次々にとらえられ死刑または投獄されます。 その頃の明善堂は、藩からの支援を絶たれ、廃校寸前でした。

江碕は大楽事件の余波を恐れ、同じく明善堂の居寮生だった若林卓爾(のちの5代目久留米市長)と内藤茂三郎(のちの八女郡岡山小学校長)と一緒に大渕の五条氏を訪ねて相談、桑取藪の農家を紹介され、川伝いに矢部の隠れ家に入りました。

桑取藪map

*)藩を揺るがした大楽事件(藩難事件ともいわれる)

慶応3年(1867年)、15代将軍徳川慶喜は大政奉還を申し出て新政府が誕生しました。先に尊皇攘夷を掲げて維新に成功し、明治政府の要職についた薩長の人々が欧米諸国と親交を深めると共に、日常生活の衣食住に至るまで欧化主義を取り始めました。それは明治維新という大業に命がけで東奔西走した尊皇攘夷の志士達にとっては我慢できないことでした。久留米藩のみならず、政治に参画できなかった全国各藩からは新政府に対する不満と反発が起っていました。

明治3年(1870年)長州藩における奇兵隊の幹部大楽源太郎は奇兵隊を動員し、山口県庁を襲撃しますが失敗。大楽は初め熊本へ逃げますが、追及が厳しくなり同志を頼って久留米藩に遁れます。久留米藩は弘化・安政の頃から勤王運動に努力を続けたにもかかわらず、明治政府に何ら発言権もない不満がくすぶっていたので大楽をかばう空気も強かったのです。
しかし大楽を久留米に隠匿しているということで、藩は苦境に立たされます。久留米藩の存亡を考えるとこれ以上大楽をかばうこともできず、大楽をおびき出し暗殺してしまいます。

明治政府は久留米藩に反政府の陰謀ありと嫌疑をかけ、大楽隠匿の嫌疑にかかわったほとんどの関係者の大量処罰が断行されました。この事件により、久留米藩では尊い多くの人材が失われました。

明治4年(1871年)7月14日には廃藩置県により「久留米県」が誕生。同年11月14日、久留米・柳川・三池が廃止統合されて「三潴県」に。さらに明治9年(1876年)には三潴県も廃合されて「福岡県」が誕生しました。

『2.我が道は教育にあり』

矢部山中に遁れた江碕は、学制発布を知ると矢部村で小学校創立に乗り出します。江碕のうわさを聞きつけ、向学心に燃える青年達が続々と集まり始めました。

教育の光は矢部の地より

3人は黒木町大渕の五条氏を訪ね、矢部山中の桑取藪の農家を紹介してもらいます。そこは世間から身を隠すのには絶好の場所でした。
しかし、間もなく若林は病に倒れて久留米に帰り、内藤も不自由さに耐え切れず山を下りてしまいます。江碕はその後も一人山奥にこもって、晴耕雨読の生活を続けました。江碕が矢部山中で身を隠しながら暮らしていることは、次第に藩内に知れ渡っていきました。

江碕の才学を知る者や矢部・黒木付近の地元青年達は桑取藪を訪ねて教えを乞いました。

桑取薮の開塾地の跡碑

桑取藪:「江崎済先生開塾の地跡」碑。碑の反対側に「住居跡地」の碑
「開塾の地跡」碑は、北汭義塾建碑委員会により昭和57年に建立、碑の裏には丸山豊氏の文が彫られています(下左画像)。

桑取薮の住居地跡碑

*

丸山豊の顕彰文

左の顕彰碑文

「先生は高い学識と深い特性によって、
故園に心の種子を蒔かれました。
北汭義塾はその大きな足跡です。
先生を敬仰する私たちはここに来て
無量の教訓を学び、
精神の真の豊穣へ志を立てるのです。」

丸山豊


明治5年(1872年)8月に学制が発布されると、江碕のうっ積されていた気持ちは晴れ晴れとなります。「我が道は教育にあり」と、早速桑取藪を下りて矢部村の小学校創立に奔走し始めました。当時、久留米や柳川などの城下町では小学教育に携わる人材を得ることは困難ではありませんでしたが山深い地で小学校教育に当る人材はほとんどいませんでした。

漢学者として藩内で高く評価され、才能が埋もれることを惜しむ声が後を絶たなかった江碕。その江碕が自ら小学校創立に立ち上がったので、地元の有識者たちは大喜びでした。矢部小学校は明治6年(1873)春に、地元民の居宅の一室を仮教室として八女郡で最も早く開校しました。

矢部塾を開校、評判となる

しかし、開校はしたものの、生徒はなかなか集りません。江碕は毎日山を越え谷を渡って一軒一軒訪問し、適齢児童に対する学校教育の必要を説き続けました。その努力も徐々に実り生徒も増え続け、明治7年には現在の矢部村役場の所に校舎と校長住宅・運動場が建築されます。この時31歳になっていた江碕は、婚約者の三谷棹子と結婚。妻と両親を呼び寄せて、ひたすら教育に全力を傾けました。

江碕は矢部小学校の教育に当る一方、学校の二階に漢学の私塾を開きました。そのうわさが伝わると、地元はもちろんのこと久留米・三井・浮羽・三潴など筑後一円から向学心に燃えた青年達が続々と集ってきました。当時の矢部塾入門者には33人の名前があり、その中には善正寺住職・田中智旭や坂本虎之助など矢部村の人もいました。矢部塾における江碕の教育はたちまち評判となり、黒木の五条氏や北川内の木下甚助は熱心に江碕を招聘しました。

江碕済の獲得に乗り出す

明治9年(1876年)江碕は矢部塾を田中智旭に託し、塾を黒木に移します。塾生は39人に増え、のちに北汭義塾の三傑と言われる三越デパートの創始者・日比翁助、陸軍大将・仁田原重行も入塾します。湯辺田村(現・黒木町)出身の文芸評論家・石橋忍月も、黒木塾生に名前を連ねています。その後江碕の名声と業績はいよいよ筑後一円の識者に認められ、各地からの招聘の交渉が行われます。その中で最も熱心だったのは、北川内村の木下甚助でした。

北川内村の木下甚助は酒造業を営み、八女郡屈指の素封家でした。北川内村には、明治7年4月に甚助らの努力によって小学校が設立されていました。甚助は青少年教育に関心が高く、そのためには優秀な教師を得ることが重要だと考えていました。

当時、矢部・黒木を中心に郡の内外に至るまで名声の高かった江碕を心から尊敬し、何とか北川内村に迎えたいと再三交渉しました。しかし簡単にはいきません。ぐずぐずしていてほかに行かれてはと思い、当時の郡役所・堀江三尚に相談し江碕を北川内村の戸長(村長)に任命することにしました。

幕末から明治にかけての教育

・寺子屋教育から小学校教育へ

江戸時代に士農工商の厳しい身分制度が確立して、その影響は教育にも及んでいました。大名は競って学者を招いて「藩校」を設け、藩士らの子弟の教育に当たらせました。
一般庶民は日常生活に必要な読み書き、そろばんの習得のため「寺子屋」で学んでいました。寺子屋よりもっと程度の高い学問を教え、身分に関係なく学問を愛好する若者に自由に入門を許していたのが「私塾」でした。学制以前の教育は「藩校」「寺子屋」「私塾」によって行われていました。

明治2年、府県では寺子屋に新しい時代・新しい社会に適応できるようにとの新政府の趣旨を普及させることを求めています。しかし寺子屋はこの要求に十分に応じられる状態ではなく、小学校の設立が急がれることになります。

明治5年、政府は学制を布告します。就学年齢を満6歳から13歳までとしますが、学校設置費と維持費は地元住民の負担、授業料は保護者負担としたため、民衆からは激しい非難の声が上がりました。

三潴県において明治7年までに小学校が設立されたのはわずか78校(12.6%)。就学率は8%(男子12.3%、女子3.5%)でした。このことからも、保護者の新教育に対する理解と関心・家庭の生活事情などがうかがえます。ちなみに小学校の就学率の男女全国平均が50%を越えたのは、学制発布後19年を経た明治24年(1891年)のことでした。

参考:八女市史・黒木町史

『3.最も充実した北汭義塾』

村の有力者・木下甚助に乞われ、江碕は35歳の時北川内村に移り住みます。ここで開いた北汭義塾には、さらに多くの門下生が集りました。

・北汭義塾誕生

木下甚助の熱心さに動かされた江碕は明治12年(1879年)、戸長及び北川内村小学校3代目校長として家族と共に北川内村へ転任しました。戸長の役目は表面上のことで実際は父・栄太郎が果たした野江、矢部・黒木時代にもまして青少年教育に力を注ぐことができました。このころになると、農村にも小学校の必要性が認められました。
黒木塾も北川内に移して「北汭義塾」と改称。「汭:ぜい」は中国の川の名で、川のよどみを意味します。北汭義塾には、ここでとどまり勉強した塾生たちが、やがて大きな流れとなって世に出てほしいという願いが込められていたといいます。江碕を慕って各地から入門する青年が多かったため、一棟の校舎を洗玉一の花(現町民体育館)に建設して北汭義塾の塾札を掲げました。
校舎は木造かわらぶき2階建てで、24.85坪の大きさでした。校長住宅も兼ねることになり、居間兼書斎の10畳の部屋を塾としました。この時江碕35歳。人生の教育活動の中で、最も充実した時代でした。

・時代の進展に応じた教育

北汭義塾には、筑後地区一円から向学心に燃える青年が集りました。遠くから笈(衣類・食器などを入れて背負う箱)を背負って入門する青年達に、江碕は温かい愛情を持って接しました。

江碕の講義は漢文にとどまらず、常に時代の進展に応じて国家社会に役立つ人間になるための学問でした。

「人間は生まれながらにして万人平等である。徳川時代のような身分制度は野蛮で、西欧諸国では早くに廃止され、みんなが仕事に励み学問をしている。日本を西欧諸国に劣らない国にするためには、学問を盛んにしないといけない。それには農民であろうと町人であろうと、すべてが学問をすることによって知識を広げ、人格を高め、それぞれの仕事に携わることが今一番大切なことである。諸君は自らの知識を広げ、人格を高めて立派な日本人として活躍してもらいたい。」

江碕の講義には、祖国を愛する情熱がほとぼしっていました。青年たちは目を輝かせ、江崎の講義に聴き入りました。

おおともべのはか 大伴部博麻の祖国愛も教える

夕日が沈むころ塾生数人に取り囲まれて、江碕はよく博麻淵辺りまで散策しました。星野川の流れを聞きながら、1300年もの昔、一兵卒として征唐の戦いに従軍した大伴部博麻の祖国愛物語をよく話して聞かせたといいます。塾生たちは吟詠をしたり柴笛を吹き鳴らして帰りました。歌声は山にこだましました。

満天の星空を見上げ、塾生たちは国の未来を語り合い、新しい時代に大きな夢と希望をいだきながら深い眠りにつくのでした。夜が更けて塾生たちが寝静まったころ、江碕は棹子夫人を促し見回りました。

塾生の中には時々いたずら者もいて、近所から「うちの柿が毎晩のようになくなる」など苦情が来ることもありました。そんな時も江碕は決して面と向って厳しく戒めることはしませんでした。

日の暮れる頃に密に肥おけをかついで柿の木の幹に肥を塗って回り、それとは気付かぬ塾生が柿の木に登りかけ肥まみれとなりました。だれが犯人かと分ってもその塾生を呼びつけるようなことはせず、翌日「人の性は元々善良であるが、悪い習慣が重なると悪人になる」という梁上の君子の話をしたといいます。

・16年間で多くの人材を地域に送り出す

北汭義塾の塾生には、村内外から86人もの名前が記録されています。

三井郡草野の少女は、男装して中野益太という名で入塾しました。数日後女姓であることが発覚しますが、棹子婦人が身の回りを世話し入門します。しかし「男女7歳にして席をおなじうせず」と教えられた時代で、自ら塾を去ったそうです。

久留米に高等女学校が設立されたのは明治30年で、その20年も前に女性が男装までして入門したということは、江碕の教風がいかに当時の青少年に求められていたかということが分かります。この頃になると、矢部・黒木塾で学んだ門下生達が社会の第一線で働き始めます。彼等は日本の将来が、正に江碕が説いたように進んでいくことを知ることになります。

*)木下甚助(1836-1916)

木下甚助(1836-1916)

北川内村庄屋。

20歳の時に稲作増産のために村民と力を合わせ、打越地区に原野を開拓した。
勉強のできる青年を奨励し、牛島謹爾もこの援助によりアメリカに渡って大成功を収めた。

「明治以前、塾による教育が盛んに」・北川内村の教育事情

北川内村教育の起源

今から約400年ほど前、北川内村の室園に住んでいた小川氏3代目、小川甚兵衛安幸が室園神社の神職を勤めるかたわら村内の子弟を集め、習字を中心に教育を始めたのが北川内村の教育の起源であると伝えられています。

その後代々、小川氏は私塾教育を行ってきました。
11代目の小川柳は天保5年(1834年)、今までの私塾に琢成堂(たくせいどう)という塾名を付けました。天保10年頃は男子生徒50人と記録されています。

明治に入り、琢成堂を村塾にしようとする気運が高まり、木下甚助の努力と村民の寄付により室園神社の左側に村塾が建設されました。しかし小川柳が明治6年に三潴県小学校の助教授に任命され村を去ることになり、閉鎖されました。

記録によると、明治以前は正明寺住職や久留米藩士後藤家の人々によっても断続的に塾教育が行われていたそうです。後藤家の塾は洗玉一の花(現在の町民体育館付近)にありました。

ビードロ学校、北川内小学校が誕生

学制発布により、明治7年4月25日に後藤塾あとに「洗玉小学校」が、同年5月1日には琢成堂塾あとに室園小学校が開校します。

しかし教育の充実を図るため、明治8年には1校に統合。校名は「琢成小学校」とし、場所は洗玉小学校あとに建てられました。琢成小学校は5ヵ月後の明治9年3月に「北川内小学校」と改称されます。ここで初めて村名と同じ小学校が誕生しました。

当時学校建築のために、北川内村で貯蓄していた290戸分520俵のうち半分の260俵を15年年賦で借用したり、村民から寄付を集めたりしたそうです。

完成した校舎は瓦葺2階建て。鬼瓦には「学(旧字)」の字を刻み、当時は珍しいガラス窓やペンキ塗りの外観で一見西洋風に見えました。村民からはビードロ学校と呼ばれ、当時この地方で最もモダンな学校でした。

『4.活躍した江碕門下生』

矢部・黒木・北川内で江碕から教えを受けた塾生たちの多くは、社会に出て活躍している。

なかでも三越百貨店を創業した日比翁助、陸軍大将・仁田原重行、渡米してポテト王と呼ばれた牛島謹爾の三人を、「北汭義塾の三傑」と称した。塾生たちは卒業して進む道はそれぞれ違ったが、親交は変わらず続いた。
北汭義塾の三傑に加え、日韓併合の陰の立役者と言われる武田範之について紹介します。

三越百貨店創始者・日比翁助(1860-1931)

三越百貨店創始者・日比翁助

久留米藩士竹井安太夫の二男として久留米市櫛原町に生まれ、20歳の時、日比家の養子となる。

日比翁助は幼少より文学・絵画を好み、明治9年18歳で江碕済の黒木塾に入門。明治13年に上京し福沢諭吉の慶応大学で学ぶ。

卒業後帰省したが再び上京。三井銀行副支配人を勤め、明治31年41歳で三井呉服店(三越の前身)に入り、座売りの習慣を改め総陳列に変えるなど改革し、専務取締役の地位を得た。その後欧米各地の百貨店を視察し、帰国して日本初のデパート・三越百貨店を創設。

日比は欧米の長所を取って、客にできる限りサービスをして店を繁盛させるとともに、国家のために貢献することを忘れなかった。国産品陳列場を設け、国産品の品質向上と文化の向上を図るが、店員養成にも熱心で、才能あるものは学歴の別なく引き立てた。当時、日本に来た外国人政治家・実業家・芸術家などはみな、三越を訪問したという。

陸軍大将・仁田原重行(1862-1925)

陸軍大将・仁田原重行

陸軍大将として第4師分団長、近衛師団長などの要職を勤めた。

仁田原重行は豊岡村(現・黒木町)出身です。鍬先売りをしていた貧しい少年でしたが、「家が貧しくて月謝を納めることができません。縁側でよろしゅうございますから先生の講義を聞かせてください」と訴える少年に、その優秀さを見抜いた江碕済が黒木塾に入門させます。

仁田原はほかの塾生たちと机を並べて勉強し、その成績は群を抜いていました。また、勉強のかたわら江碕家の家事を手伝い、江碕の妻や父母のためにも気を配って働くことをおこたりませんでした。

その後江碕の勧めにより陸軍士官学校を目指し、見事合格。さらに陸軍大学に進み、陸軍大将まで昇格します。当時は薩長藩しか大将に慣れなかった時代、仁田原は筑後地区出身で異例ともいえる大出世をします。

出世した後も、江崎を敬愛し、先生の荷物は自分が運ぶとして、自分の部下にも触れさせなかったという話が残っています。

*

大正7年 関東平野部で行われた陸軍大演習では、南軍(東)松川敏胤の指揮に対して仁田原重行は北軍(西方)の指揮を執っています。

*)日比翁助と仁田原重行は黒木塾に入門しますが、その後北汭義塾に移り学んでいます。

ポテト王・牛島謹爾(1864-1926)

ポテト王・牛島謹爾

三潴郡梅満町(現久留米市梅満町)で代々農業を営む旧家の三男として生まれ、アメリカへ渡りジャガイモ栽培に成功。日米親善の架け橋となりました。

負けず嫌いで向学心に燃える青年・牛島謹爾は、明治14年18歳の時に北汭義塾に入門。

謹爾という名前は江碕が命名。当時自信過剰だった牛島に対し、「自らを深く反省、自戒するように」との江碕の思いが込められていたといいます。

牛島は22歳で漢学の大家を目指し上京。東京で二松学舎に通うが受験に失敗。しかし明治21年12月、25歳で「日本で勉強するよりアメリカで学ぼう」と横浜港を出航。

カリフォルニアで労働のかたわら英語と農業の研究を続け、アメリカ人の常食がジャガイモであることに注目し、広大な未開の地を開拓。災害等に見舞われ幾度も失敗するが、血のにじむような努力を重ね、ジャガイモ畑は4万ヘクタールの広大な農場となり、カリフォルニア州のジャガイモ生産額の7~8割を占めるようになり、ポテト王と言われるようになりました。

当時のアメリカ社会で日本人の地位は低かったが、52歳の時(1906年4月18日早朝)、マグニチュード7.8と見られるカリフォルニア州サンフランシスコ周辺を襲った「サンフランシスコ大地震」では、いち早く大量の救援物資を届ける活動などを通して日米親善に努力し、無官の大使ともいわれ、在米の日本人会長に推され、アメリカにおける日本人の地位向上にも尽しました。貧しい人には日米の差別なく援助しました。

漢詩を作ることを趣味とし、恩師・恩人に対しては終生変わることのない愛情を持ち続けました。牛島が亡くなった時、全米の日本人が悲しみ、多くのアメリカ人が深く哀悼の意を捧げました。

黒木町学びの館には、江崎済の喜寿の祝いに寄せた謹爾の漢詩があります。

平等の日韓併合を問い続けた・武田範之(1863-1911)

平等の日韓併合を問い続けた・武田範之

久留米藩士沢四兵衛の3男として久留米市篠山町に生れる。韓国に関心をいだき、往来。日韓併合の陰の立役者と言われる。

武田範之は、小さい頃から漢籍読破力に優れていたが、11歳で草野町の医師武田貞助の養子となる。「医者になれ」という養父に反抗して放浪の生活に入り、17歳で北汭義塾に入り、頭角を現しました。19歳の時大阪や東京へ行くなどその後も放浪するが、21歳の時に仏門へ入る。

その後、朝鮮を渡り歩き、朝鮮開発を自分の使命とし、朝鮮の志士金玉均などと親交を結び力を貸したり、朝鮮滞在時には文化事業にも努め、海印寺の高麗版大蔵経の版本15万枚の保存にも力を尽します。

武田は韓国と日本を往来し、一進会(日韓合併を推進した韓国の団体)が日韓合邦を提唱すると大いに奔走しました。 明治43年10月に日韓合邦は成立して武田はこの功績により爵位を与えられますが、自分の目指していた平等の併合とはほど遠いため、受けずに寺へ帰ります。民族主義を提唱していた武田は、韓国人に対して面目が立たなかったためであろうと言われています。

武田は明治44年、49歳で舌ガンで亡くなります。もし武田がもっと永生きし、彼の理想のとおり日韓平等の併合が進んでいたら、朝鮮と日本は別の方向に進んでいたかもしれません。江碕済の教えた自由平等の思想は、武田の中に常に生き続けていたのです。

『5.郷土出身の塾生たち』

黒木塾や北汭義塾には、地元から入門した塾生たちは村長や議員、教育者になったり、郷土で事業を興したり、地元の発展に尽しました。

私財を投入して北川内公園を建設。郷土に産業を興した。木下学而(衆議院議員)

木下学而は甚助の長男として元治元年(1864年)北川内村に生れます。

北汭義塾に学び、東京に留学。村会議員・県会議員・衆議院議員を歴任。先見の目と行動力に優れ、産業振興・道路整備など郷土の発展のために力を尽します。「村民憩いの場に」と、私財を投入して北川内公園の外郭石垣を3度の失敗にもめげずに建設。小学校改築時に建設資材を提供するなど村の教育振興にも力を入れました。

郷土の農業発展にも貢献し、田畑の少ない農山村で収入を上げるために私財を投入して養蚕を奨励し製糸工場を建設(北川内村にできた製糸工場は明治43年~大正2年頃まで操業)し、。北川内村はもちろん、横山村や星野村に至るまで養蚕業が盛んになりました。

星野川の水をむだに流すのはもったいないと洗玉発電所の開発も手がけ、明治44年に北川内村は他村より一足先に電灯がともることになりました。

学而の記念碑は、昭和23年に村青年団により北川内公園に建てられています。

黒木町出身の文芸評論家・石橋忍月

ポテト王・牛島謹爾

(本名・友吉)は慶応元年(1865年)、湯辺田村の石橋茂の3男として生れます。

江碕済の黒木塾で学び、明治20年東京帝国大学に入学。在学中から「女学雑誌」「国民之友」などに評論を発表。二葉亭四迷・坪内逍遥・森鴎外らの作品を論じ活躍し、文学評論家として地位を確立します。森鴎外と論争になった「舞姫」批判は特に有名です。

大学を卒業後、裁判所判事になりますが、退官し弁護士を開業。その後長崎県議会議員として活躍し、大正15年急性肺炎で62歳の生涯を閉じます。

「黒木塾・北汭義塾の主な塾生」

○黒木塾

鏡山修(塾長・矢部塾からの門下生。草野銀行取締役)、
日比翁助(三越デパート創設者)、北川親蔵(大淵村長)、見野卯蔵(黒木町長)、松木和蔵(旭松酒造創立者)、馬渡誠之(大淵・飯干小学校長)、仁田原三郎(重行・陸軍大将)、石橋友吉(忍月・文学者)、隈本勝三郎(黒木町長)、広瀬大作(医師)、立野栄次郎(旧制浮羽中学教師)、隈本哲太郎(2~4代北川内村長)

○北汭義塾

河原峰次(塾長)、武田範之(日韓併合に尽力)、木下学而(衆議院議員)、牛島謹爾(ポテト王)、井上智次郎(木屋村長)、今村邦太郎(上峰尋常小学校教諭)、五条安次(小学校教師)、中野益太(本名矢萩、男装して入塾)、木下長太郎(5~7代北川内村長)、立石貞幹(4・12代横山村長)、木下弘(12・13代北川内村長・黒木町長)、立野新五郎(小学校長)

○その他北汭義塾生

石田幹、永野敬之丞、宮崎次郎、中島其ニ、石橋則利、神代強三吉、新妻庄五郎、武田佐吉、木下虎次郎、田中半次郎、林雄太郎、丸山吉太郎、古賀次郎、本庄邦彦、堤宗吉、亀山徹、井上智三郎、生熊徳次郎、宇野赴天、佐藤貞次郎、西村重保、久谷健次郎、飯田茂、加藤真二、西田重遠、麦生惟穆、堀江寅雄、大坪逸次、橋爪寛之、隈本次郎、山口七蔵、山口伸吉、梅野一、松木寅蔵、渡邊清太郎、竹下貫之、広松束、十時維恵、樽見彦太郎、高木三太、小川岩太、稲富武次郎、北原秀吉、江頭九八、岡村虎次郎、江頭仁一、松木又蔵、宮崎秀樹、高橋益三、朽綱建次郎、森山守雄、青木弥一郎、今村益枝、鳴尾甲之助、井上有義、小川鶴蔵、西村市次、立野栄次、小川源蔵、西村泥華、倉員克己、樋口茂、川口権九郎、川口新蔵、古賀広次、木下与蔵、鳥井増蔵、首藤精、西村盛太郎、木下裕正、野中猪之吉、大坪忠三、久保有容、倉員彦三郎、松浦福次郎、樋口武人、立野新五郎

『6.北汭義塾よ、永遠に』

晩年の江碕は、明善中学の漢学の教師として教鞭を取ります。教え子たちは恩師を訪問し、喜寿をみんなで祝うなど、年月が流れても深いきずなは変わることがありませんでした。

「漢学の大家として明治天皇への上奏文を起草」

明治20年~30年代の日本は日清戦争・日露戦争に勝利し富国強兵を歩んでいた時代、日本の教育制度も整い始め、中学校・商業高校・女学校が各地に設立されています。

江碕は三井郡松崎尋常高等小学校長と同郡の教育会長を8年間勤めた後、明治36年(59歳)、県立明善中学校で漢文を教えることになりますが、詩文に優れ漢学の大家として、県下で江碕の右に出る者はいませんでした。

明治44年、久留米で陸軍特別大演習実施の折、明治天皇への知事の上奏文は江碕が起草したものでした。

晩年も、江碕は明善校で教鞭をとり続けました。その間もかっての教え子たちは江碕を訪ね、安否を気遣いました。アメリカの牛島からの音信は絶えることなく、江碕が70歳を超えてから「人力車で通勤してはどうでしょうか。費用は私が負担します」という手紙が届きましたが、江碕はこの手紙に感激しながらも、荘島町の自宅(青木繁生家跡の隣:現在は石碑が残るのみ)から学校まで徒歩で通いました。

「江碕の喜寿に門下生集まる」

大正10年5月25日、江碕の77歳の喜寿と棹子夫人との金婚式を併せた祝賀会が、北汭義塾の門下生により久留米市翠香園で開かれました。門下生たちも60歳前後で、社会的地位も確立していました。牛島はアメリカから長文の祝辞を贈りました。(黒木町「学びの館」に展示されています)

江碕は大正15年12月10日、明善中学校の現職のまま82歳で亡くなり、中学校は前例のない学校葬を計画しますが、江崎家はそれを断り、偉大な郷土の教育家らしく簡素ながらも盛大な葬儀が行われました。

彼の墓地は久留米市の順光寺にあります。

『7.ゆかりの地を訪ねて』

・黒木町の「学びの館」は、旧隈本邸を黒木町が平成2年に譲り受け修復、開館しました。隈本家は八幡村新庄(現・八女市)の隈本家より分家した隈本儀三郎により、文久3年(1863年)に建築されました。隈本家は代々漢学者として名家で、2代目隈本勝三郎は黒木塾の門下生として学んでいます。学びの館には、江碕済の書・北汭義塾模型や牛島謹爾が江碕の喜寿に贈った祝辞、関連写真、石橋忍月に関する資料などが多数展示されています。

江崎済の書
江碕済の書
義塾記念碑
北川内小・北汭義塾跡碑
江崎が塾生たちと散歩した途中の石橋
北川内公園付近:江碕は門下生と一緒によく散歩した。

石橋謹爾の書
牛島謹爾から江碕への手紙

出発はこの地から

義塾跡の説明図

町民体育館正面が正明寺
左:町民体育館(左側に北川内小学校の運動場)     右:正明寺

・北川内小学校の「北汭義塾跡碑」と矢部村、桑取藪「江碕先生開墾の地跡」碑(この頁上部) は、
江碕済の孫になる故・稲富稜人氏(衆議院議員)を始めとする北の義塾建碑委員会により
昭和57年に建立されました。碑の裏には故・丸山豊氏(医者であり詩人、久留米市出身)の詩が彫られています。

北汭義塾模型(切り立ての低い瓦葺き2階建て、約82㎡(24.85坪)の家屋)

義塾の模型義塾間取り図

北側玄関
北・玄関側

西側
西側

北汭義塾の閉鎖後は校長・職員住宅として永年使用されていましたが、昭和44年に解体されました。

しかし目をつぶると、明治という激動の時代を駆け抜けた塾生たちの鼓動が今も聞こえてくるような気がします。牛島謹爾も江碕済の喜寿に贈った祝辞の中で「春花の遊に善神山頭(北川内公園)に侍し」「秋月の宴に星野湖畔に従い」と、恩師や塾生と過ごした北川内を懐かしんでいます。
北汭義塾は私たちが忘れない限り、心の中で生き続けます。

八女教学の地・矢部村桑取藪には、江碕済の碑が建てられています。人家まばらな山奥で、当時の苦労がしのばれます。

・黒木塾の碑(黒木町中町)は江碕済の功績をたたえ、平成15年11月に地域の建設委員会により建立されました。

・久留米市荘島町の江碕済屋敷跡:
青木繁の生家斜め前に位置する江碕の屋敷は、しばらく月星の重役の社宅として使用されていたそうですが、今は取り壊されて個人の住宅地となり記念碑が建てられています。
江崎済の生家もこの界隈にあったそうです。

資料:「北汭義塾」
より転載(主要部)

黒木町の方々にお話を伺っていると、今でも江崎済という人が敬愛され、教育に対する考え方などを受け継ぎ、後世に伝え残したいという皆さんの願いを強く感じました。

江崎済は荘島町に生まれ育ち、晩年、久留米の青木繁生家の隣に住み、明善校の教師(漢学)として教育に携わったのですが、
彼とほぼ同じ時代の人:

  • 高良内で活動:戸田友次郎(京町出身【天保15(1844)年1月2日-明治25(1892)年11月12日】)
  • 日本赤十字精神の祖:高松凌雲(小郡市古飯出身【天保7(1836)年-大正5(1916)年】)

彼等の志の高さ、人への愛の強さ、分業化され個々に分解された現代社会だからこそ学ぶべきことがあると思います。