宿町の鉦浮立(かねふりゅう)と船底宮・御幸(みゆき)


鳥栖市重要無形民俗文化財

歴史

景行天皇の皇子・日本武尊が熊襲征伐の折、この地に留まられたことを記念して、
662年に創建された養父郡の惣社である四阿屋宮(佐賀県鳥栖市牛原町)の神事芸能。

毎年4月1日の御幸で上宮-中宮-下宮と移動され、里を見て回られるので、里人は通り道を清め、神様が本宮に戻られると、四つの村々がそれぞれで芸能を奉納していた。

牛原の獅子舞:(4月2日) (香椎宮)
午前10時から牛原町・香椎宮
午後2時から四阿屋神社にて
雌雄2頭の獅子に各々、前・後役が入り、子供が「獅子つりの御幣」を振って動作を促すのにあわせ、演舞する。
宿の鉦浮立:(4月29日)(舟底宮)
五穀豊穣・無病息災を祈願し、宿町車路(文化会館)から船底宮まで
9時:文化会館を出発 、(幟・道ばやし・鉦下げ・太鼓打ち)が練り歩く
10時:鳥栖市役所で1回目の浮立
11時50分:船底宮で浮立奉納
養父のはぐま行列
蔵上の御田舞(おんだまい) (10月20日前後の日曜)(老松宮)
稲作の一連の所作を芸能化した豊作祈願の予祝的伝統的行事
旧暦2月15日に奉納されていた記録があり、約1300年前の天智天皇頃から始まったと伝えられる
○長暦元年(1037)筑前国太宰府から老松宮を勧請された。「養父郡神社記録」
○長久2年(1042)山城国北野から勧請された「鳥栖民俗」
昭和29年に鳥栖の市制施行記念に復活された

map

概略:
鉦浮立は鉦と大太鼓を主体にした浮立である。
以前は「横笛」と「ムラシ(締太鼓)」もあり「鉦」は12個使用した構成で、 芸態は江戸時代に整えられたようだ。

2列に並んだ10人の鉦打ちが一定の所作で15kgもの鉦を頭上に上げ下げしながら、打ち鳴らす勇壮な舞、 それに太鼓打ちが鉦打ちと鉦打ちの間に「返り(側転)」して入っていく動作は見どころである。

現在、浮立に使用される楽器は「鉦」10個と「大太鼓」1基。
車路から船底宮までは行列を組み、鉦で「道ばやし」を奏し、地元の小学生多数が踊る「道行き」 を行う。

役割、人数、衣装:

先払い:1名
旗を持って先導する

鉦小頭:2名
紋付を着用
鉦打ち:10名
紺の着物にたすき(黄)・手甲・白股引・脚絆・黒足袋を着用し、草履を履く
鉦下げ:10名
「道行き」の際に鉦打ちと2人で鉦を下げて打つ。衣装は鉦打ちと同様だが、たすきを使用しない

太鼓小頭:2名
法被を着用する
大太鼓::2名(少年)
日晴れ着物のような上着・たっつけ袴・飾り付きの手甲・青い色布の鉢巻を着用し、背中に「ボンデン(色紙を束ねた飾り)を着ける
お謠:若干名
法被を着用し、入場後にお謡いの一節「四海波・・・」「老いせぬや・・・」を、演技の最後には「嬉しきかなや・・・」を謡う

御潮井汲み

前日の四阿屋宮前、四阿屋川の水を汲んで来て、清める

当日:鉦浮立の流れ

順路:鳥栖市民会館→市役所前で浮立→宿町・船底宮

1)文化会館前

文化会館前に集合した子供たち
車路(文化会館前)鉦と太鼓は始まっています。道行(小学生)はグループごとに集合

文化会館前での鉦・太鼓
鉦と太鼓 「黄たすき」が鉦打ち・もう一人が鉦下げ

2)市役所前で浮立

市役所広場での鉦打ちの準備
鉦打ちが準備中

3)宿・船底宮

船底神社に到着した鉦

船底宮に到着した子供
先頭の方、踊りは雰囲気があり、素晴らしいです。子供たちはお疲れです

船底神社で小頭先頭で演舞場へ
1:小頭(こがしら:紋付2人)の先導で入場 (鉦打ちが「シャギリ」を奏し、「ヤーサー」の掛け声)

2:中央で2列に整列したあと、「差し」「廻り」「送り」「チャンポン」「リヨリヨ」という順で演舞をする。

鉦を廻す

船底神社での演舞
鉦を頭上高くに持ち上げる(片手で!!重さ10㎏以上!!)

交互に立ったり座ったり
休みなく動く鉦打ちの額には汗(

鉦の間に入る太鼓打ちの舞
太鼓は浮立の間、絶えず打たれていて、時には、鉦の間で踊り・・大活躍です(

太鼓打ちも激しい動き
太鼓打ち(小学生)の役割の重要性に、初めて気づきました(

撥(木槌)が空を舞って
撥(木槌)が空を舞っています(

*** ** 鉦浮立の演舞 ** *** 

1)差し: 鉦を腕一杯に頭上に上げることで、「コレハイサ」の掛け声で3回差して打つ
2)廻り: 鉦打ちは鉦を抱えて廻って、打ち手の位置が代わり、2回鉦を差す
3)送り: 鉦を抱えて横に移動し、1回鉦を差す
4)チャンポン:2列に並ぶ鉦打ちが交互に鉦を4回差して打つ
5)リヨリヨ: 鉦打ち、鉦下げ全員で大きな円になり、終い鉦連打で奉納終了

鉦打ち(黄だすきの人)が準備する間等に謡(太鼓傍の人たち)があります。

「高砂」

四海波静かにて 国も治まる時津風。
枝を鳴らさぬ御代なれや。
相に相生の。
松こそめでたかりけれ。
げにや仰ぎても。
事も愚かやかかる世に。
住める民とて豊かなる。
君の恵みぞ ありがたき
君の恵みぞ ありがたき。

「猩々」

老いせぬや 老いせぬや
薬の名をも菊の水
盃も浮かみ出でて
友に逢うぞ嬉しき
嬉しきかなやいざさらば
嬉しきかなやいざさらば

此の松影に旅いして
風もうそぶくとらの時
神のつげをもまちてみん
神のつげをもまちてみん

離れた場所で、聴けませんでしたが、伝承されている歌詞を教えて頂きました。


1855年(安政2年)に造られた「拾一番」の鉦

1855年(安政2年)に造られた「拾一番」の鉦

1943年3月21日の軍部への強制供出を密かに逃れ、
今日まで残されている。(重さ10㎏超)

「安政二年卯二月」と「田村 宿村」の銘
(安政二年は1855年)(

資料

宿町・船底宮について

34号線の内、宿町を通る部分は古代官道「肥前道」に比定されている。

神亀5年(728)四阿屋宮から岐神(ふなどのかみ)を勧請して祀った。(岐神は岐路に立つ神で、後には商業の神とされた。恵比須も祀られていたが明治の「神仏判然令」で境内から消えた。 )

宿の鉦浮立(通称・ドンキャンキャン)は江戸時代から伝承されている民俗芸能で、地域の無病息災、五穀豊穣を祈願して奉納されている。

昭和17年(1942)4月1日、成年男子は戦争に駆り出され、鉦浮立ができなくなり、行列のみ四阿屋宮・神幸祭に参加
昭和18年(1943)3月21日、浮立鉦10個を軍部へ強制供出
鉦を叩き行列をつくり鳥栖駅前広場に持って行き、喚声を揚げて別れを惜しみ地方事務所に納める
昭和18年(1943)4月1日、牛原、養父、宿、蔵上の4ヶ村による四阿屋宮神幸祭は惜しまれながら中止
昭和29年(1954)4月1日、鳥栖市制施行(2町3村合併)12年ぶりに4町とも再開。村田町から鉦10個を借用して参加

2枚の画像は昭和30年に参加した時と思われる(公民館に展示されている写真を撮影)

昭和34年(1958)4月、古式のままで伝わる田舞として、佐賀県重要無形文化財に指定された
昭和35年(1960)4月、四阿屋宮の御幸祭は社会情勢の変化により中断した
平成元年(1989) 3月21日、昭和39年に中断した浮立を復活
船底宮境内で、鉦・太鼓・踊りの道囃子だけを実施、衣装を披露
平成2年(1990) 4月29日、鉦差し浮立30年ぶりに復活、町区内の行列、船底宮境内で奉納、以後、毎年開催
伝承行事の承継者育成
平成3年(1991) 6月5日、筑後川フェスティバル91に出演、喝采を受ける(石橋文化ホール)
平成3年(1995) 10月19日、佐賀県伝承芸能祭に出演(唐津神社境内)
平成9年(1997)3月3日、鳥栖市重要無形民俗文化財に指定された

補足:
宿町の御幸祭は蔵上町の御田祭とともに、その歴史は古い。 御田祭の申立で、天正年間(1573年)に中断されていた御田祭が、宝暦10年(1760年)に復活したと述べている。 その頃、神領地だった宿、蔵上両村の神座人を中心として宿村が御幸祭を、蔵上村が 御田祭を分担して始められたのではないだろうかと「四阿屋宮御幸祭と御田祭」鳥栖市教育委員会編纂(昭53.3.31)」にも記してあるように、この両祭りは240年からの古い歴史を持っている


今回、特にお願いして大野健男氏(西日本写真協会)の写真6枚を利用させて頂きました。
の画像ですが、厚かましくもトリミングして、折角の作品を普通の写真に変えてしまい申し訳ありません。)
宿町公民館、田中館長にも資料を頂いたり、教えていただくなど、大変お世話になりました。
一応の形にできたところで、「木槌」が「バチ=撥」だと教えて貰いました。
地元の人から聞かなければ、間違いに気づけません。他にもあると思います。(次回に・・)

home