多久聖廟・西渓公園・歴史資料館など

第4代、多久邑主の多久茂文

教育に熱心な人で、
元禄12年(1699)に東原庠舎という学校を建てましたが、儒教の教えを重んじた文武両道を修行する学校だったが、
他藩と違い、「百姓町人といえども志次第」と百姓、町人にも門戸を開放した。
また宝永5年(1708)、「敬」の心を育むために多久聖廟を創建した。

時間がなくて奥の聖廟は見学できませんでした。


肥前狛犬について

一度見ると、その独特の形に魅了される人も多いようですが、歴史資料館の館長は永年研究されていて、50体ほどを集めて展示されたことがあるそうです。

問題は、肥前狛犬の人気が高く、盗難して売り飛ばす輩があるそうで、
久留米で見た単純な形の肥前狛犬は、現代彫刻に思えるほど素晴らしいと思いますが、上の理由でHPに掲載はしませんでした。

しかし、盗難対策として、狛犬のそれぞれの情報を把握して、盗難に遭えば、その狛犬の情報を公開することが対策の一つ、同時に地元の人たちに、その狛犬がいかに貴重なものかを認識して日頃関心を持って貰うことが大切なのだと・・・。
狛犬は神様に仕えているのだから、売り物にするなどもっての外とも云われました。
職員の方に貴重な時間にもかかわらず、たくさん教えて頂きました。


於保 乙彦氏

於保 乙彦氏の像

明治11年~昭和18年(1878~1943)
福地隆春の三男として東の原(現在の多久市)に生まれ、明治25年山崎出身の於保惟新の養子となる。
大分中学、第五高等学校を経て京都帝国大学医学部に進み、卒業すると台湾総督府台北病院医官となる。
大正時代の始めドイツに留学、大正3年(1914)日独戦争が開戦し、ドイツ軍の捕虜となる。
大正6年に帰国し、台北病院皮膚科部長、のち病院長となり、
昭和2年(1927)台北帝国大学の開校と共に医学部教授及び附属病院長となる。乙彦は幾多の貴重な研究論文をまとめていたが博士論文を提出せず、弟子達自分の研究論文を出せずに困り、乙彦の留守中に研究室の机の中から論文を選び、京都帝国大学に送り、その結果、乙彦が知らぬ間に博士号が送ってきた。
論文は乙彦が世界で初めて発見した細菌に関するもので、於保の名前から「サルナノミタエスインキンオホ菌」と名付けられた。
享年64歳。

多久市先覚者資料館・歴史民俗資料館

*)日独の戦争で、青島のドイツ人だけでなく、たまたま寄港していた多国籍の人たちも、捕虜として日本に抑留されていました。
国対国の紛争対立に限らず、民族や宗教対立など、大きな紛争では、個人の都合はお構いなく命に関わる悲劇にもなりかねません。


少弐氏のお墓:専称寺境内

専称寺少弐墓地

専称寺で
大刀洗合戦の取材をしていたため、後醍醐天皇方(懐良親王・菊池武光・五条家)に対して、少弐氏は敵という先入観がありましたが、少弐家13代少弐政資公・少弐家14代少弐資元公墓所少弐の名前を見て驚きました。

大刀洗合戦から後、大友氏からの攻撃を受け、進退窮まって自害をした少弐氏の悲劇。

戦国時代では、一族が生き延びることが、最大の使命だったのでしょう。

少弐家13代少弐政資公 少弐家14代少弐資元公墓所

多久市文化財 須弥座付無縫塔(室町時代)

少弐家は武藤資頼が九州太宰府の太宰少弐に任ぜられて以来、冬尚が永禄3年(1560)冬、神崎城原勢福城にて龍造寺隆信に滅ぼされるまで15代、370余年の間、西九州を制した戦国大名である。筑前、筑後、肥前、壱岐、対馬の五州の太守で、少弐政資はその13代にあたる。

かねて敵対していた中国地方の大内義興は陰謀を図り、将軍足利公が淡路島に下向の折、許を得て、明応6年(1497)正月、四国中国の諸侯に政資征討の令を発した。

これに馳せ参じた15万の大軍が太宰府の少弐一族へと押し寄せ、為に少弐は太宰府を捨て、岩間城にて転戦するも力及ばず。

弟の千葉胤資の居城たる小城晴気城で、再び政資、高経、頼高の一族、大内勢と夜6日間の激戦にも抗しがたく、高経、頼高は市川へ逃れて、ついに討死した。

政資は春4月18日夜半の多久川から下鶴と山裾伝いに忍び、
梶峰城主多久藤兵衛宗時、すなわち岳父を頼ったが一族敗残の身、軍勢に抗し得ずと悟り、岳父、宗時は娘婿の政資に涙ながらに自害をすすめた。

戦国の世とは栄枯盛衰と覚し専称寺本堂前庭で自決する。
辞世の句

「花ぞ散る 思へば風の科(とが)ならず
                     ときいたりぬる 春の夕暮れ」の一首を残した。

石に腰掛け、世の転変と無常に思いを寄せ、梅よ心あらばこの梅を萌え出で末代までも美しい花をさかせよと、腹十文字にかききって倒れた。

これが専称寺の「核割れ梅」であり、「血びきの石」である。時に明応6年4月19日だった。
戒名は前太宰都督司馬少卿安養院殿明哲本光大禅定門。
政資の子で天文5年(1536)同じく多久で没した資元の戒名は前三州太守太宰少弐都督司馬少卿心月本了大居士である。

専称寺住持三十三世 勲矣記

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