第26回 諸田賢順を偲ぶ会

2016年7月13日(水)午後2時

  • 会場:多久市多久町東の原 光明山「専称寺」
  • 主催:多久市文化連盟
  • 後援:多久市・多久市教育委員会
  • 久市観光協会・孔子の里

毎年、7月13日の命日に催され、今年が393回忌。



次第:

1・開会
2・挨拶:多久市文化連盟会長 吉浦啓一郎
3・諸田賢順の慰霊 読経 川副春海 住職
4・来賓挨拶
多久市長 横尾俊彦
多久市議会議長 山本茂雄
佐賀県議会議員 野田勝人
多久市教育長 田原優子
5・諸田賢順を偲んでの演奏
箏・尺八合奏「六段の調べ」「編曲 元禄花見踊り」
献吟:
「山行き同志に示す」草場佩川 作
吟者:永井豊鴎・船津豊永
「専称寺の核割れ梅に題す」松下豊菖 作
吟者:石田豊染・松本豊晟
「諸田賢順を偲ぶ 和歌入り」副島健三 作
吟者:松本豊旺
6・閉会
7・茶話会:北島の銘菓「琴最中」と抹茶を頂きました。

賢順さんの子孫の方がお二人出席されていて、
いろいろなお話を楽しく伺いました。

賢順忌献句(あざみ句会)から抜粋:

  • 神仏に祈るこころに蓮の花(大石ひろ女)
  • 紫陽花の藍を深める賢順忌(竹富りつ子)

専称寺境内には、小弐氏の墓・核割れ梅があります。
近くの西渓公園には歴史資料館
少し離れた多久聖廟傍で「鳳凰の筝」(下写真)が見られます。

詩吟「偲諸田賢順」

花開天聴鳳凰筝
創曲綿綿後世生
賢順静眠多久里
遏雲清韻慰心情(副島健三)

邑主の要請で多久に移り住んだ賢順は、筑紫筝の発展に力を注いだ。筝の絶妙の音曲をお聴きになった後陽成天皇から「鳳凰」の銘を賜るという光栄に浴し、以来現代まで生きつづけている。筑紫箏の清らかな音曲は、空を行く雲が立ち止まって聴くほどで、90歳の生涯を終え、多久のお墓に眠る賢順の心情を慰めているようだ。


諸田賢順の墓

諸田賢順の墓

諸田一族は小侍という地区に住んでいたことがあるようです。道路に面した民家の傍、すぐ裏の丘への小さな階段を登ります
狭い平地に全部で10数基ほどの墓があり、他の墓と密集しています。

多久市重要文化財 諸田賢順の墓 平成元年2月28日 指定 筑紫箏の創始者と伝えられる諸田賢順は筑紫の宮部郷に生まれ、7歳の時、父が戦死し善導寺(久留米)に入り、12,3歳で浄土佛事の琴をよくし、
天文20年(1551)英彦山に移り、禁中の楽府、琴譜を修めた。さらに明から渡来した鄭家定(ていかてい)に五音六律を学び箏曲にすぐれ、大友宗麟に召し抱えられたが、意にそぐわなかったので肥前川副の正定寺(しょうじょうじ)に逃れた。
元亀2年(1571)多久邑祖・竜造寺長信に招請され、その後、多久に住し、長信の子、多久邑初代邑主多久安順(やすとし)につかえ、安順婦人千鶴子(徳寿院殿)に箏曲を教授、元和9年(1623)に没する。
日本の箏曲の基本を作ったと云われ、全国的に著名な諸田賢順に関する資料が少ない中で、諸田賢順の墓と伝えられる有耳五輪塔は、賢順の没年と同時期の江戸時代初期のもので、諸田賢順の墓と推定され、貴重な資料である。
高さ94.5㎝、水輪部に八卦の八卦の「兌」=兌(だ)の陰刻がある。

現地の説明板より

賢順夫妻の2つ入った位牌を撮影させていただきました。賢順は江戸時代の初め頃、90歳まで生きたのですね。

呑誉浄水居士
元和9年癸亥七月十三日享年九十
善誉妙順禅定尼(奥さん?)

撮影した位牌の写真をHPに上げることは失礼に当たるような気がして、止めました。

●参考(元和9年は西暦1623年)


鳳凰の箏

石碑「鳳凰の箏」

東原庠舎の跡地(現イベント広場)の中に「鳳凰の箏」石碑があります。

慶長10年5月、佐賀藩主鍋島勝茂の婚礼のために京都伏見に滞在していた多久初代領主「多久安順(龍造寺家久)夫妻に一曲奏でるようにとの勅定があったが畏れ多いと妻・千鶴が愛用した箏だけをお見せしたところ、その音色の美しさに後陽成天皇が「鳳凰」と命名された短冊を下されたと伝えられます。千鶴は多久に在住した諸田賢順(1533-1623)から直接箏曲を学び、箏の名手になったといわれています。

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