三重津海軍所跡


記念館側から見た三重津海軍所跡。早津江川の対岸は大野島。右手奥に見えるのは早津江橋
ここでは海軍兵士の養成(航海術・造船術・銃砲訓練などの学科や技術の教授)や艦船の整備などが行われた。
佐野常民は海軍所の監督(責任者)として深い関わりがあったそうです。
佐賀藩三重津海軍所絵図

佐賀藩三重津海軍所跡
安政3年(1856)佐野常民が佐賀藩海軍の創設建白書を佐賀藩10代藩主鍋島直正に提出した。それ以前は、安政2年(1855)7月に機械工学や遠洋航海術等の知識習得の必要性からオランダ人を教官とした長崎海軍伝習所が設けられた。最初の伝習生130名のうち幕府から40名、佐賀藩から48名、残りが諸藩からの参加者であった。伝習所教官のベルス・レイケンやカツテンディケらは、佐賀藩からの伝習生について「これらの伝習生は最もすぐれ、また最も進歩した者たちであり、ときどき幕府伝習生を発奮させる動機となった。」と述べている。 安政5年(1858)正月、西洋の近代軍備を熱心に学んでいた佐賀藩は、佐賀県三重津(現在の諸富町寺井津と川副町早津江の間)に船手稽古所を設け、洋船運用術の教育を行った。 安政6年(1859)に長崎海軍伝習所が閉鎖されると、敷地の西側一角を海軍稽古場とし、稽古人詰所、調練場を建設し、長崎海軍伝習所の第一期生を教官として船員養成、洋船の航海技術の伝習にあたった。 さらに、文久元年(1861)、同所に汽罐製造所を新設、同3年には日本で最初の実用蒸気船となる凌風丸(木製汽船、外車、長さ60尺、幅11尺、10馬力)の建造を開始し、慶応元年(1865)に完成をみた。これらは、佐賀藩の科学技術グループである精錬方の手によって推進された。 また、この頃の三重津には幕府がオランダから贈呈されて長崎海軍伝習所で運用していた観光丸のほか、佐賀藩がオランダから購入した飛雲丸・電流丸をはじめ、イギリスから購入した甲子丸・皐月丸などの洋式船が出入りし、三重津海軍所は、閉鎖された長崎海軍伝習所に代わって、佐賀藩の近代的な海軍基地として著名な存在となった。 後年、同地に佐賀郡立海員養成学校が明治35年(1902)に設立され、同39年に県立となり、工業学校と合併して県立商船工業学校と改称し、海運事業の中心となる海員養成の重要な役割を果たしたが、海運界の不振および県の財政難のため昭和8年に廃校となった。

平成22年8月 佐賀市教育委員会

現地の説明板より転載しました

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