小城山挽祇園701年祭:小城市

平成29年7月22(土)前夜祭・23(日)本祭

22日(前夜祭)
18;30 横町奉納浮立出発 
19:00 神社広場にて開会式
郷土芸能ステージ:
芦刈大頭保存会・牛津宿場華太鼓・小城太鼓・小城棒踊りの会 他
23日(本祭)
10:00 出陣式(下町交差点付近)  
10:30 上り山  
12:00 山鉾奉納(神社広場)  
17:00-20:00 歩行者天国(中町交差点-上町三叉路)  
18:00 歩行者天国で祇園総おどり

小城山挽祇園祭実行委員会
(事務局:小城商工会議所内 電話0952-73-4111)


祇園川を渡った左の山上に神社拝殿・右側山上に千葉城跡

小城鍋島四百年 元茂・直茂

午後5時:山車が出発

恵比須のついた山車

3つめの山車が出発

取材時は、事前にネットで時間や内容を確認していますが、サイトには掲載が見つからず困りました。
当日、須賀神社前で、神職に、桜城館で「小城町史」を見るように教えられて往復。途中で数人の方に「大丈夫ですか?」と心配されながら青息吐息で歩きました。

以下は「小城町史」からの引用です。「山挽き祇園祭」についての詳細な資料は分かりませんでした。

須賀神社

延暦22年(803)の勧請で牛頭天王(須佐之男命)をまつり、佐賀・小城・杵島の宗廟の神社だったと古書に記録されている。
元茂公御年譜によると、千葉胤貞が正和5年(1316)下総より小城に下向し、現在の山上に祇園社を建立したとされ、後に築いた城を牛頭城と称した。龍造寺隆信はこの地を領した際、神社敷地二町一反五畝歩、社領八町五反一畝二十九歩を献納し、
天正18年(1590)鍋島信昌(直茂)は神殿を再建し、翌19年には拝殿を再建した。
このように千葉氏以来、代々の領主、藩主の尊崇をうけたが、明治9年() 祇園社の社号は須賀社と改称された。
その理由は、祇園の名が仏の精舎の名から出たもので、時の廃仏毀釈運動にのっとり、祭神須佐之男命が「心すがすがし」といわれ起こった出雲地方の地名「須賀」を取ったとされ、また、昔はこの社を「清祠(社)」といったとも伝えられる。
千葉氏の祇園社造立以来、6月15日の例祭に山鉾を造り曳きはじめ、鍋島氏の代になっても続けられたが、天保14年(1843)倹約のため山鉾曳きは中止された。しかし、明治になって氏子達はこれを惜しみ、山鉾を小さくして再開した。

千葉城

別名・牛頭城は岩松村祇園岳(別名 牛頭城)にあり、北は天山、南に祇園川を望み、標高136mにあり、築城について、『肥前國史』には「鎌倉の時、千葉氏、下総に在りて遙かに小城を領すること数世。賴胤、文永の外寇に創を被り小城に卒す。其孫胤貞に至り初めて晴気に居る。其子胤泰、嘉暦3年戊申北条氏の命を以て本州を管理し此の城を築く。」とあるが、 「小城藩祖初代元茂公御年譜中」によると、 「千葉家小城を領知有し始は右大将頼朝公の御時、千葉介平常胤、鎮西の監職にて、下総の本領の上に肥前國小城郡晴気の庄を給りしより九代大隈守胤貞、正和五年始めて下総より小城へ下向有、晴気の城に居住し、又牛頭の城を取立て、山上に千葉家の守護神妙見宮を北浦に建立す 帰依寺松尾山も造立也。・・・」。とあり、 また『小城郡誌』にも 「・・・・九代大隈守胤貞に至り正和五年始めて下総より小城に下向し、晴気の城に居住して、後、牛頭城を築き山上に祇園社を建立し」とある。 胤貞が築城、その子胤泰を小城郡三日月村の高田城を築いて、これに住わせ、広く陣地を保ったものである。 その後、この千葉城は、代々千葉氏の居城となった。しかし、天文十四年(1545)馬場賴周が入城して立て籠もったが、龍造寺剛忠に攻められ、敗北したあとは廃城となり、千葉氏は龍造寺に服属していく。

参考資料:小城町史

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