神野公園


外観だけですが、部屋数は相当あるようです。

神野のお茶屋隔林亭は、1846年(弘化3)11月に佐賀藩の十代藩主鍋島直正(閑叟)公によって建立されました。 フルベッキや大久保利通が来訪するなど佐賀の迎賓館的機能を有し、神野の御茶屋の象徴として存在していました。 直正公は、全国有数の雄藩としての実績を築くと同時に、政務の余暇を隔林亭で茶を喫し、詩作にいそしむと共に心を洗ったといわれています。 その後、明治維新になり数々の人の手にわたった後、第2次大戦後に解体されその歴史を閉じました。 この茶室は当時の資料を参考に平成元年市制百周年記念事業として復元計画が決定されました。落成 平成5年4月24日 佐賀市

お茶屋「隔林亭」

茶室は池の中に張り出しています。池には黄色い睡蓮の花が咲いていました。
公園内には子供向けのこじんまりした遊園地などがあり、幼稚園児童が引率されて来ていましたが、きれいな気持ちの良い公園です。桜の名所だそうですから、シーズンには沢山の人でにぎわうようです。

茶室までの入り口までも、すみずみまで神経がゆきとどいているのを感じました。
このようなところに座れば眺めも素晴らしいことでしょう

江藤新平卿の像

天保5年(1834)2月9日佐賀郡八戸村(佐賀市鍋島町八戸:やえ)で佐賀藩士の家に生まれた。
幼少から勉学に励み、藩校弘道館に学んだほか、枝吉神陽、石井松堂などにも師事したが、
早くから尊王同志の義祭同盟にも参加した。

維新の風雲が急を告げるや文久2年(1862)脱藩して京都に上り、勤王派の公卿や薩摩、長州などの志士とも交わって大いに画策するところがあったが、佐賀へ連れ戻されて脱藩の罪に問われ、辛うじて死は免れたものの終身閉居を命じられた。

慶応3年(1867)徳川幕府が大政奉還した後、罪を許され郡目付として京都へ上る。

翌年、朝廷の徴士となり、征討大総督府の軍監として江戸開城に立ち会う。
また、彰義隊討伐と江戸遷都を建議、その後、江戸の民政安定などに尽くした。

明治2年(1869)佐賀藩の参政に任命されて藩政改革に取り組んだ。
同年秋、新政府の要請により再び東京へ上り、中弁に任命されて
廃藩置県案、賞典制度案、国政改革案、陸海軍備方策などを作成し、建策した。

明治4年文部大輔、左院副議長、同5年司法卿、同6年参議と要職を歴任し、
文教制度の確立諸法規の制定などに尽くした。

明治6年10月征韓の議が否決となったため、西郷隆盛らと共に参議を辞任し下野。

同7年1月佐賀に帰って征韓党の党首に推された。
同年2月岩村高俊権令が熊本鎮台兵を率いて佐賀に入城したため、島義勇の憂国党と共にこれを攻めた。いわゆる佐賀の役が勃発。最後はこの戦いに敗れ、
同年4月13日佐賀城内で処刑された。時に満40歳。

大正元年(1912)罪名消滅。大正5年正四位を復位追贈された。 その最後は悲痛を極めたが、江藤卿が初代司法卿として近代的法制と緒官制の創建、司法権の確立、汚職の摘発、人権の擁護などに身をもって当たった不滅の功績は永く歴史に残るであろう。

昭和51年4月14日 江藤新平卿記念碑建設委員会
現地説明板より

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