デ・レーケ導流堤

新田大橋から下流、有明海・雲仙島原方面

新田大橋から下流、有明海・雲仙島原方面

汽車や自動車等の交通機関が未発達の時代、筑後川は、交通路として、 灌漑工業用水の水源として重要な役割を果たしていた。鹿児島本線や長崎本線が開通する前、江戸時代の宝暦元年(1751)、久留米藩によって開かれた河口から上流約10kmの大中島北端付近まである若津港は、広大な穀倉地帯からの米・麦、日田からの竹木材の積出港として大小の船舶が常に出入りし大いに繁栄した筑後平野第一の河川港だった。

現地では沈礁(ちんしょう=沈床とも)とよばれるこの導流堤は、筑後川の蛇行を防ぎ、河口での土砂の堆積を防止し、船舶の航路を確保するため、内務省オランダ人技師(デ・レーケ)の指導で1884年(明治16年)に調査開始、(着工時期は不明)。

河川改修工事として費用64万2055円を投じ、国鉄佐賀線(昭和62年3月廃止)昇開橋のすぐ下流から柳川市の永松荒籠まで長さ約6㎞。明治23年(1890)に完成した。

(大川市教育委員会説明看板より一部抜粋)

導流堤のはたらき

導流堤を造ったことで”ノズル”と同じ原理(狭く、深い部分ほど水の力が強く、流速も大きくなる)が働くことになる。

この水の力で堆積する土砂を下流へ流し、現在でもその水深を保つことができている。

左画像:満潮時、標識以外は水没する。右画像:新田大橋の上流側・奥に赤い昇開橋が見える

上流に向かって右側は土砂堆積がなく深さが保たれ、左側(大野島川)には堆積が見られる。

導流堤はところどころ堤が中断しているが、そこは川を横断するために利用されている

導流堤の構造

川底が軟弱な地盤なので、粗朶(そだ:雑木)を敷き詰めた上に枕石を入れ沈めている。 粗朶は、いわばクッションの役割を果たし、強い水流のあたりを和らげている。

また結果としてこの沈床に鰻などの魚が住み着いている。

粗朶沈床の断面略図

標識:導流堤は満潮時に水面下になるので航行の安全のため、左図のように導流堤上に間隔をとって標識を並べ立てている。

B:満潮時の水位

A:干潮時の水位

大雨の後の水の勢いがすさまじく、川岸を大きく削り、川の形を変えてしまうので、日本古来の方法では、水勢を弱めるために川に多数の杭を立て並べていた。

粗朶沈床

粗朶沈床(そだ・ちんしょう)は、粗朶(成長が早く、幹が軽くて硬くしなやかで丈夫な落葉広葉樹のナラ、クリ、カシで7~10年ほど成長した枝)を一定の太さに束ねて格子状に組み、大きなマット状のものを作り、枕石を投入して川底に沈めている。

(川に造られる工作物が沈んだり、流されないためのもので、水勢で川底や川岸が削られるような場所にも用いられる。)

(北陸粗朶業振興組合のサイトを参考にしました)

日田の竹木材の組合にいただいた資料によれば、日田の材木がたくさん切り出され筏にして流していたのは明治頃からで、それ以前は 竹材で、竹筏が多かったそうです。
風浪大祭の折、ある方に「昔の家はほとんどが土壁だから、その芯材に(割竹を縦横にして縛る)大量の竹が必要だった。細い竹は海苔養殖網を張る時に必要で、立てて使っていた」と教えて頂きました。自分の子供時代を振り返れば、確かに家の内外とも、壁の芯に竹が使われていたという記憶があります。

筑後川の筏や水運についても、別ページに作る予定です。

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