ヨハニス・デ・レーケ

オランダと堤防

Johannis de Rijke(ヨハニス・デ・レーケ)の経歴

1842(天保13)年12月5日(オランダ生まれ) - 1913(大正2)年1月20日

1845(弘化2)年 江崎済、荘島町で誕生

1866年(慶応2年)23歳の時、
アムステルダムの東、ドルヘルダムで「オランダの輪中堤」の仕事をしていたという。
1867年(慶応3年)、
アムステルダムと北海を結ぶ北海運河の主要構造物の一つ、オランニエ閘門の現場主任監督として工事を成功させた。
堤防だけでなく大規模構造物の施工についても経験を積み、オランダ内務省土木局技官たちからも高く評価されるようになった。

*)オランニエ閘門: パナマ運河と同様、水位の高低差を調節し船を航行させる装置)

1867年(明治元年)7月2日、25歳で
19歳のヨハンナ・マリア・アリダ(カルバン主義の敬虔なキリスト教徒)と結婚(日本では翌年、明治時代が始まる。)

1871年(明治4年)7月14日 廃藩置県を布告
1873年(明治6年) 西郷隆盛と江藤新平は参議を辞任
1873年(明治6年) 江崎済が矢部塾を開いた

1873年(明治6年)9月24日
日本政府に招聘されたオランダ内務省土木局エリート技官(総合科学者でもあった)G.Aエッシャー(一等工師:設計担当)とデ・レーケは兵庫湾に到着した
デ・レーケは施工や監理を中心に担当。後にエッシャーの後任として内務省土木技術の助言や技術指導者として現場を指揮するようになるが、この時の契約では、4等工師として遇せられ、月給300円(警察官の初任給4円、大阪府小学校長が22円から35円)だった。

明治政府は、新技術導入のため、多数の外国人(お雇い外国人)を招いた。
その数は1890年までの記録によれば2960人。
このうち給与総額の95%程はイギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・オランダが占めていたという。
高額な報酬で雇用されたが、極度の円安状況に加え、欧米から見る当時の日本は極東の辺境地で外国人身辺の危険も多く、技術・知識の専門家を招聘することは困難だったためと考えられている。
デ・レーケもこうしたお雇い外国人の一人。

1874年(明治7年)1月、 太政大臣 三条実美が淀川の修築工事を決済。
1874年(明治7年)から、
デ・レーケは砂防のために禁山林伐採説を唱え、山林地の保護についても運動し、植林なども行っている。
当時の内務卿松方正義はデ・レーケが説く「日本の荒廃した河川の現況と対策」、そのための砂防、山林保護についてもよく理解し、デ・レーケの活動を助けた。
(エッシャーは科学的視点から砂防ダムを設計したり、わら縄のネットで山肌を覆い、松などを植え、デ・レーケは若い技術者志望の日本人に施工方法を指導し、淀川上流にある禿げ山、京都府綺田山の緑を回復させた。また砂防ダムの施工についても日本人官吏や労務者に砂防ダムの施工について指導し、全国に10数地域、「デレイケ堰堤」「オランダ堰堤」と呼ばれる砂防ダムがある。)

1874年(明治7年)西郷隆盛等が鹿児島に私学校設立
1874年(明治7年)2月15日、佐賀の乱(山川招魂社)

1875年(明治8年)6月28日
エッシャー指導下で淀川(現大川右岸)現大阪市北区天満1丁目・天満端1丁目
1875年(明治8年)7月1日
デ・レーケ指導で淀川左岸、現高槻市前島1丁目等で粗朶沈床の水制と護岸の施工。(日本で初の近代工法による河川改修工事)

1876年(明治8年)3月28日、廃刀令、
1875年(明治8年)8月22日、ロシア帝国と樺太千島交換条約。

1876年(明治9年)清力酒造創業
1877年(明治10年) 西南戦争開始

1878年(明治11年) 九頭竜川改修計画着工(エッシャーが河口閉塞対策計画で設計と工事費用見積もり、デ・レーケが工事を指導)
1882年(明治15年)
九頭竜川河口の防波・導流堤が完成。三国港突堤幅全長927mの内(511m、幅約9m)部は平成14年12月27日に国重要文化財に指定
これらの工事の優れた点は、浅く広い河口なら土砂が溜まるが、狭く深い河道を作り、水勢で土砂を堆積させず、外海に押出し拡散させてしまうことにあった。
(政府は混沌とした国内状況の中、国民の不満をなだめる目的だったか、各地を回り、河川改修の取組みで、地域住民に利益をもたらした。)
1880年(明治13年)1月30日のデ・レーケの手紙によれば
彼は木曽三川の他に三国・淀川の工事にも取り組むため、それまで住んでいた大阪から半年間ほど、岐阜に移り住む。
*)木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)は200年前形成され、各々の河口は独立していたが、その後の海面後退と三川からの多量の土砂流下で濃尾平野という沖積が形成されて、氾濫を繰り返していた。
デ・レーケはこの三川を200年前のように分離してそれぞれ独立した河川にしようと考えた。
(洪水の自然な掃流力だけで流出土砂が河床に堆積しないようにする。)
1881年(明治14年)6月8日
妻ヨハンナが出産時の手術の後遺症で亡くなる。(神戸市立外人墓地)
この頃、内務省土木局で蓄積した経験を創設早々の東京大学理学部工学科土木選科、工部大学土木工学科卒業の日本人内務局土木局技術官僚を指導した。 29年9ヶ月在日した。日本で勅任官扱い(天皇から直接雇われる副大臣)に昇進した。

1882年(明治15年)7月13日青木繁誕生

1883年(明治16年)、田中政義の要請で政府から派遣された技師・長崎 桂とデ・レーケは吉見嶽に上り、筑後川を検分する。詳細は下に記述
1884年(明治17年)内閣制度実施
4月18日(金) デ・レーケは山縣有朋内務卿の招待で上野精養軒で食事。翌日、船で下関へ行く。→博多港→佐賀→筑後川
(*)デ・レーケの手紙では、当時三池炭鉱からの石炭積み出しに若津港を使えば、効率が良くなること、潮汐の干満差を港内に溜まる土砂を掃流する力として利用できると予測している。
1885年(明治18年)淀川の大洪水
淀川の大洪水を視察したデ・レーケは水門と堰を設置、新淀川を掘削することを提案した。

1885年(明治18年)北原白秋誕生・ベンツによるガソリン自動車発明。

1891年(明治24年)内務省勅任官技術顧問(内務省事務次官に相当)の扱いになった。
1891年(明治24年)7月、九州から東北地方にかけて豪雨災害が発生。常願寺川流域の被害は、堤防決壊6,500m、流出地1,527haに達した。
同年8月6日、森山茂県知事が国に派遣を要請した専門技師として、デ・レーケが富山に到着した。9月2日、石川県へ出発するまでに常願寺川をはじめ、黒部川、片貝川、上市川、庄川、神通川の各水系と伏木港を視察して立てた常願寺川治水計画は以下の4つ。
1) 12本の右岸側農業用水の合口化
12箇所の取水口が堤防を壊れやすくしているので、取水口を上流一箇所にまとめ、幹線用水路から各用水路へ配水する。
2) 堤防を霞堤にする
堤防を連続させないで、二重に配置する。洪水時にはその堤防の間に一時的に水を溜める事ができ、また、上流が決壊しても氾濫した水が元の川に戻れるようになる。
3) 下流の流路変更
常願寺川は河口近くで大きく東に屈折し、白岩川へ合流しており、そこが氾濫しやすくなっていた。新たにまっすぐ海に向かう川を掘ることで、川の流れを速くすることができ、その勢いで土砂も押し流せる。
4) 川幅の拡張
1903年(明治39年)デ・レーケの指導を受け県営事業として始められた常願寺川砂防工事は1926年(大正15年)に国直轄事業として引き継がれ、開始より100年以上経た現在も続けられていて、その効果で常願寺川は安定した河川となっている。
1896年(明治29年)
新淀川掘削工事に着工。(低水工事)
1903年(明治36年) 離日
在日中に提出した報告書は57編に上り、2度授勲される。帰国を前に日本の土木の基礎を築いたとして勲二等瑞宝章を授与される。退職金は現在価格で4億円相当とされ、当時の上官で内務省土木局長だった古市公威ら高級官僚らのねぎらいもあったとされる。
内務省退官後、数年間はオランダに帰郷し英気を養ったが、まもなくオランダ政府代表として、中国の上海の黄浦江管理委員会技師長に就任。黄浦江改修に成功し、世界的名声を得た。
(建設系事業者のいい加減さや中国政府の混迷で事業費問題、独・英政府、報道機関への対応等に苦労、心労が重なり、命を縮めた。)
1911年(明治44年) 技師長職を辞し、1月17日にオランダの獅子勲爵士(侯爵相当)が送られ、貴族の仲間入りを果たした。
1913年(大正2年) 母国オランダのアムステルダムにて死去。アムステルダムのゾルフリート墓地に眠る。

デ・レーケと高良山吉見岳

「餘澤千歳」の碑文より

この地方で治水の必要性を訴えていた楢原平左衛門(今山村庄屋)の外孫にあたる田中政義翁は、治水事業を生涯の任務と考えていた。日本中を歩き回り、地形を調べたり、川を上下して、水勢を調査するなど、熱心に踏査し、研究した。
寛永3年(1830)大洪水の時、翁は藩に治水策を講じるように説き、現場活動に力を尽くして村民のために奉仕した。
藩庁は治水係を置き、方法を研究させたが、治水工事について、川の模型を見せて具体的な説明をする彼の意見に皆が賛同した。
寛永6年、藩庁に意見を上申するよう求められ、彼は三つの方策を提案した。

しかし、藩庁では、巨額の経費を心配して決定できぬまま数年経過、明治に入ると、治水事業も打ち切られてしまった。

この年、福岡県は、彼の治水策が必要と判断し、意見を求めた。(この頃は、毎年の水害で、耕地の荒廃がひどかった。)

福岡県久留米市東櫛原・百年公園内の碑「餘澤千歳」
建立:明治39年(1906)12月・建立者:左 正武

*)参照資料:筑後川改修記念碑に思う 今村瑞穂

*)デ・レーケと技師・長崎 桂は、吉見岳に案内されて筑後川を見たあと、河流を検分して治水策を立てたという。

業績に共通する方法は、次の5つだった。

  1. 上流域で砂防する(植林、砂防ダム等)。
  2. 洪水は上流から河口まで分流させないで流す。 
  3. 洪水を流す河道は深く川幅を狭くして曲がりを少なくする。
  4. 蛇行した低水をつくり舟運の便を図る。
  5. 河口に導流堤をつくり土砂を海深いところへ流す。 

参考文献:「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ」 上林 好之 1999 草思社

農林水産省のサイト「内務省技術顧問 ヨハネス・デ・レーケ」
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/toyama_02/index.html

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