昭和20年8月8日(終戦の1週間前)、
福岡発9時25分の下り列車(2両編成)は井尻付近で空襲警報のため停車、ほぼ満員の200名余の乗客は一旦車外に避難した。
北部九州が何度目かの空襲を受けた日で、戦爆連合180機の編隊が井尻上空を通過したのが目撃された。
警報は1時間余で解除され、乗客はふたたび電車に乗り込んで、電車が筑紫駅に近づいてたのは、昼近くだった。
ちょうどグラマン数機が上り列車(2両編成)に機銃掃射を加えているのを目撃、急停車して乗客避難を開始する間もなく、たちまち機銃掃射を受けた。
このため上り列車の乗客20名のうち即死8名、下り列車の乗客200余名のうち即死56名、負傷者100余名という莫大な被害を受けた。わずか5~6分間の出来事だった。終戦まであと1週間という日の惨劇である。」と西日本鉄道株式会社70年誌は筑紫駅空襲の模様を記載しています。
この駅舎の屋根には当時の米軍機の弾痕が残されています。わたしたちの身近は所で起きた戦争の惨劇が永く語り継がれ、この駅舎が平和の礎石として活かされることを願って保存するものです。
またこの駅舎は大正13年4月に開通した急行電車のホーム待合室として昭和初期に建設されたもので現存する駅舎の中では最も古いものでもあります。
*)なお銃撃をした米軍機の機種については諸説があります。
筑紫野市教育委員会(1996・8)
(保存展示されている待合所横の説明板・画像を転載しました。)
「筑紫れくいえむ」によれば、銃撃した米軍戦闘機はp-51(通称ムスタング)の可能性が高いようです。
銃撃事件の当時、周囲一面は水田が多く、隠れる場所がなかったと思われます。事後、死者数が増えた可能性がありますが、はっきり確認がされていません。
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この時の機銃掃射の跡が残る待合所(高さ2.7m、幅3.5mの木造)
筑紫野市・筑紫多目的公民館横に平和のシンボルとして永久展示された。
米機カメラ撮影・西鉄筑紫駅・国鉄久留米荒木駅への銃撃(宇佐市平和資料館映像)
車内にいた当時17歳の明神貢さんの話
「ガガガって天井をぶち抜くんですから、弾が通っているんです。
弾は下の乗客に・・・・・しかも本当の満員電車・・・・・。
隣にいた彼女は、胸から玉が入って背中へ抜けた・・・・・。
背中にはこれくらいの穴が開いていた(両手の指で輪を作って:直径10cm)位」
*********************** 参考文献 ***********************
「筑紫れくいえむ(坂井美彦・ひろ子氏)著」(西日本新聞社刊 2008年7月28日発行)
この襲撃の様子や南筑中学生が学徒動員で高良隊と名づけられていたこと、
大牟田線の電車を終戦後1ヶ月まで運行したことなども含め、多くの生存者による証言とそれに基づいた調査で、終戦間際のこの地方の情況・その背景まで詳述しておられます。
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