古屋佐久左衛門(兄)と高松凌雲(弟)

高松凌雲

高松凌雲

高松凌雲は天保7年(1837年1月31日)古飯の庄屋高松家の三男としてこの地に生まれた。
成人すると久留米藩家老の家臣川原弥兵衛の養子となるが、24才の時に脱藩、医学の道を志す。

江戸で医学の修養に励んだ後、
文久元年(1861年)には大阪の緒方洪庵(適塾)への入門が許された。
後に一橋家に仕官したのをきっかけに、

慶応2年(1866:30才) 15代将軍徳川慶喜の奥詰医師を命ぜられた。

*)慶応2年(1866)初冬・福沢諭吉の「西洋事情」出版

慶応3年(1867:31才) 徳川昭武(慶喜の実弟)に随行
ナポレオン3世が開催する第2回パリ国際博覧会に赴く(資料3)
医学校を兼ねたHotel Dieuに入学、医術の勉強をはじめたが、
慶応4年4月2日(1868:32才)、大政奉還の知らせ、戊辰戦争勃発の報を受け、帰国する。
慶応4年4月24日、パリ発、5月27日、横浜入港

帰国後は、幕軍の榎本武揚らと行動を共にするが、
戦争の際、高松凌雲は箱館病院(万延元年=1860年、栗本鋤雲らの提唱で箱館医学所として建設されていた)の頭取として、敵味方の別なく、約10ヶ月の間に傷病兵1338人の治療にあたった。(銃創者380人中97人死亡・罹病者958人中34人死亡)。
官軍からの降伏勧告の手紙は、ここを通じて五稜郭へと届けられた。

戊辰戦争終了後は、北海道開拓に意欲を持つ水戸藩主・徳川昭武に随行したり、
慶喜の妻の乳癌手術なども行ったが、
徳川家の恩顧を忘れず、政府の誘いも断り、一介の町医者として開業した。
明治10年、西南戦争時には、佐野常民の赤十字社が設立直後で医者不足・薬がなく、援助を依頼されたがこれも断っている。

明治12年(1879:43才)、医師仲間と「同愛社」を設立し、貧民施療に努めた。
明治25年(1892:56才)、同愛社の社長を榎本武揚に譲った。
大正5年(1916)10月12日、東京の自邸で、肺結核のために81才の生涯を閉じる.(墓は谷中霊園乙5号2側にあるらしい)
昭和20年(1945)まで「同愛社」は続き、戦前の日本における社会福祉医療の一端を担った。

(現地説明板に、付け加えています)
参考資料:「夜明の雷鳴」吉村昭著

高松凌雲の碑

Takamatsu Ryoun(1836~1916)was born here.

He studed medicine throuhout his life,and in 1866 was appointed official physcian to Tokugawa Yoshinobu,

the 15th During the Boshin CivilWar(1868-69).he treated over 1,300 wounded from both sides,in the spirit of the Red Closs movement.

in 1879 he founded the Doaisha organization,working to provide medical aid to the poor.

パリの「Hotel Dieu」(神の家:資料2)という市民病院兼医学校に併設された貧民病院では、国からの援助を受けず、
「Hotel Dieu」に所属する同じ医師や看護婦が、無料で貧しい人たちの診察・治療にあたっていた。
高松凌雲は、このことに強い影響を受けた。
帰国後、函館、五稜郭の戦いでは幕府側として医療に従事したが、同時に官軍側の負傷者たちの治療もおこない、
幕府軍に降伏をすすめる使者もつとめた。
戊申戦争後は政府や佐野常民の誘いも断り、東京で民間の人々の治療に専念した。

古屋佐久左衛門

古屋佐久左衛門の碑

幕末開国論の先覚者・古屋佐久左衛門先生は高松虎之助直道(後に與吉と改む)の次男として天保4年(1833)に生れ、名は智珍、通称勝次と称した。

嘉永4年(1852)19才にして単身大阪に上り、最初は医学を志したが、己が性医学に適しないと知り、志を転じて江戸に出て刻苦勉励、血の沁む様な勉学の末学友(父かも)の幕臣川勝丹後守の世話にて幕臣古屋氏の養嗣子となった。時に27才、安政4年4月の事で、名を鐘之助のち佐久左衛門と改めた。

先生は一命を幕府の命運に捧げて遂に函館五稜郭に於いて散華した。時に年37才、その壮烈不撓な生涯の行績は明治34年辛丑10月草された大槻文彦博士の古屋君追悼文によって詳らかである。

人の一生と数奇とは予測することが出来ぬ。先生の如きはけだしその典型であろう。

尊王倒幕の軍に伍せず幕軍の将とならしめた。順逆二門の選択は実に境遇と時勢によって決せられることを知るのである。

落日孤城命運まさに尽きんとする徳川の天下を挺身これを支えんとする義憤烈情ついに衝鉾隊を組織して連戦屈せずよく隊員を掌握して北門の五稜郭に拠り榎本武揚を助けて歩兵隊総指揮官となりて遂に骨を碧血碑下に埋めた。

ああ、もし先生をして維新後に生かしめ明治の廟堂に立たしめんかその蘭、露、英、漢の学識死生往来の胆略と接渉、統御の材幹と素朴円轉な資性とは必ずや天下の信望を集めて外交に兵制に経論を発揮したことを知るべきである。

春風秋風百余年を経て今賢兄弟共に故郷生誕の地に還り相対して建碑せられる余栄萬世を照らすと共に、この兄弟二傑を産んだ郷土は勿論高松家の家風を欽仰する次第である。

昭和50年12月 長州中尾正気斎誌

小郡市郷土史研究会
久留米郷土史研究会
古飯区民一同
有志一同

説明文や凌雲の肖像はそれぞれ現地説明板のもので、2つの碑も現地で撮影。

嘉永4年(1852)、19歳、医を志して大阪に出奔、名漢方医・春日寛平の塾に入ったが、江戸に出る。
嘉永4年から安政5年(1858)、極貧の中で勉学、漢学・蘭学・数学を学び、剣術その他の武芸も修めた。
明朗快活・豪放磊落で度量が大きく、学友の世話で幕府御家人格、古屋家の養子となり、新婚すぐにロシア語を学ぶ。(27歳)

*)この頃、脱藩した凌雲は兄宅に滞在して蘭法医石川桜所の内弟子として医学と蘭学を学ぶ。

28歳の時、英語を学ぶ。武術(馬・槍・柔術)も修め、砲術も購武所で習得した。
文久元年5月(1862)、29歳、翻訳神奈川奉行所定番役となり、運上所(税関)に勤め、訳官(通訳)を兼ねた。
横浜野毛町の官舎に移る。訳官を兼ねていたので外人との接触が多く、洋書を読んで外国の知識が増えていった。
元治元年11月(1864)、31歳、神奈川に設けた幕府英学所の教授方助となる。(教授は宣教師ヘボン、バラ、トムソンだった。)

文久4年11月、凌雲は横浜の兄の官宅に寄宿して英学所に通学した。

横浜(安政5年に通商条約で開港)は外人が多い中で、日本人を見下し、市民に暴行する者の不義を許さず、(英人の馬に蹴られ傷ついた子供のために取った養生銀13ドルを親に渡したり、買物でいざこざをおこした水兵には、その非を指摘して商人を守った。)得意の英語で交渉して物事を解決したので、民衆の尊敬の的となった。

この時期には、薩摩・久留米藩の軍艦購入にも斡旋の労をとったという。

文久3年(31歳)、横浜居留地に駐屯する英国士官から英国式用兵術を学ぶ。
慶応2年、神奈川定番役頭取・窪田泉太郎を助けて「英国歩兵操典」の翻訳出版に関わる。(洋式兵書出版の始めという)

この操典にもとづく洋式訓練は、神奈川の幕兵に実施し、その中の歩砲兵一大隊が江戸城護衛のために派出され,
この隊が越中島で操練するときは佐久左衛門が教官となり、諸藩も争って伝授を依頼するようになり、
ついに歩兵操練の指導者として、歩兵頭に昇進した。

慶応2年(34歳)幕府の兵制改革で歩兵指図役となり、江戸に帰った。
慶応2年正月9日、翻訳所出勤を命ぜられ
2月1日から下谷御徒町に英学塾の建築開始。
久留米藩からも英国調練と英学を学びに来たので、役宅裏に塾舎を開く。
8月13日から仏人ハーホールについて仏語を学び始める。
慶応3年8月26日(35歳)軍艦役並勤方となり、築地の海軍伝習所で教授する。(海軍との縁で、海軍奉行榎本武揚を知る)
10月14日、大政奉還
海軍奉行・榎本釜次郎(武揚)と知り合う。
王政復古の大号令

慶応4年正月3日、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は大敗。(パリの留学生一同はこの報に接し、帰国を決意、5月17日、横浜帰着。)

横浜で6年暮らし、外人と交わって外国の事情に通じていた彼の思想は文明開化を望む開国主義で、
攘夷を主張(後には倒幕を志向)する薩摩・長州に抵抗を感じていた。
攘夷倒幕をはかる薩長を憎む心が高まり、義勇軍-衝鉾隊の編成となった

「衝鉾隊」の編成:

鳥羽・伏見の戦いで、帰りの兵が上官を射殺して逃亡。
古屋は今井信郎等と勝阿波に書面で届け、野洲佐久山で追いつき、説得して350余名を連れ帰る。
連れ帰った脱走兵を含めた部隊を編成し、信越地方の幕府直轄地の騒乱を鎮撫する許可を得る。
兵400・砲4門、陣笠1000個、軍用金を得た。

「衝鉾隊」の名は3月25日、会津若松で部隊再編成時、または5月1日に酒屋陣屋で再編成時に付けられた

5月12日、函館戦争で五稜郭にいた古屋佐久左衛門ら衝鉾隊幹部は艦砲射撃の直撃を受ける。
佐久左衛門は函館病院で弟凌雲の治療を受けたが、
6月14日37歳で死亡。

(佐久左衛門は、江戸を出てから受傷する前日まで、英文の日記を付けていたという。)

(「古屋佐久左衛門伝」著 篠原正一・「会津白虎隊」著 星亮一)


古飯の出身者:酒井義篤元貞

処刑人の屍を譲り受け、筑後国では初めて人体解剖を行い、教授した。
文政5年(1822) 内蔵実景を筆書し「解体図志」と題している。西日本各地に名声が及んでいた。
(「解体図志」の原本は現存せず、写本は財団法人武田科学振興財団に所蔵されているという)
(*)福岡県医蹟マップ(日本医史学会福岡地方会製作,2003年)

筑後市大字尾島510-1(209号線・尾島交差点近く)の共同墓地にあった墓は、納骨堂の建立時に整理し移動したようだ。

資料1(佐久左衛門・凌雲の時代)

(2人の活動を年表にしました。酒井義篤については資料を探しています。)

文政5年(1822)酒井義篤、人体解剖して「解体図志」を作成

天保4年(1833)佐久左衛門生まれる。

天保7年(1837)凌雲生まれる。成人して久留米藩士の養子となる。24歳の時、脱藩、江戸で医を学ぶ

嘉永4年(1852)佐久左衛門(19才)、大阪へ出て苦学する

安政5年(1858)佐久左衛門(27才)、幕府御家人古屋家の養子となる

学んだ英語力が認められて神奈川奉行所定番役、運上所(税関)に勤め、横浜野毛町の官舎にうつる

文久元年(1861)凌雲、緒方洪庵(適塾:大阪)へ入門

元治元年(1864)佐久左衛門(33才)、幕府英学所(神奈川)の教授方助となる

慶応2年(1866)4月、幕府は海外渡航を許可した

凌雲、徳川慶喜の奥付医師になる。
佐久左衛門(35才)、「英国歩兵操典」の翻訳出版に関わる

慶応3年(1867)第2回パリ国際博覧会(ナポレオン3世が開催)

凌雲は徳川昭武(慶喜の実弟)に随行して渡仏(1月11日横浜発-3月6日パリ着)、 医学を学ぶ
3月8日、柘植善吾、英船「フィロン号」長崎発-大西洋経由でボストンに留学
10月13日・14日 討幕の密勅が薩摩、長州に下される。
10月15日 大政奉還
12月09日
雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)のクーデターで朝廷を掌握、
王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言
12月23日
江戸城西ノ丸の焼失。庄内藩の巡邏兵屯所(江戸市中警備の任務)への発砲事件が発生(薩摩藩が関与したとされる)
12月25日
老中・稲葉正邦は庄内藩に江戸薩摩藩邸を焼討させた。

慶応4年(明治元年:1868)

1月元日、
慶喜は朝廷に討薩の上表を提出、薩摩藩掃討のため軍勢(幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩等)を京都へ向け行軍させた。
1月02日、幕府軍艦2隻が、薩摩の軍艦(兵庫沖で停泊中)を砲撃(事実上の戦争開始)
1月03日、大坂の薩摩藩邸を襲撃、京都の南郊外で鳥羽・伏見の戦いが開始
当時の兵力は、新政府軍(約5,000人)旧幕府軍(約15,000人)、旧幕府軍に最新型小銃などの装備があったが、
初日は緒戦の混乱・指揮戦略の不備などのため旧幕府軍が苦戦となった。
1月04日、薩長軍(後に土佐藩も)は正式に官軍とされた
1月06日、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。
1月07日、慶喜追討令
4月24日、凌雲(32才)、パリを出て、横浜入港(5月17日)
8月20日、榎本武揚ら総勢2,000余名の旧幕府艦隊が品川沖を脱走、仙台を目指す。
10月12日、古屋作左衛門、衝鋒隊や土方歳三ら1000人を収容して仙台藩、東名浜を出航
10月21日、箱館の北、噴火湾に面する鷲ノ木に約2800名が上陸
10月26日、五稜郭を占領、箱館に進軍、重傷の福山藩兵らが残されていたが、凌雲は捕虜を治療して、青森に送り返した。
11月27日、朝廷は、清水谷箱館府知事を青森総督に、黒田清隆・大田黒惟信を総督参謀に、山田顕義を陸軍参謀兼海軍参謀に任命。

明治2年(1869)

5月11日、土方歳三の戦死
5月13日、高松凌雲と病院事務長・小野権之丞の連名で榎本に降伏を勧告する
5月18日、無条件降伏で五稜郭を開城。約1,000名が投降

資料2

Hotel Dieu :

パリ市シテ島(パリ中心部、ノートルダム寺院がある),セーヌ河対岸(北側)に位置したパリ市最古の病院で、ルネッサンスまではパリで唯一の病院(「神の館」中世は療養院)。
凌雲の時代、ブルジョワや貴族による寄付金、助成金などで運営され、貧しい人々を無料で施療していた。
現在も病院は活動している。

資料3

1867年パリ国際博覧会:

日本が初参加した国際博覧会で、江戸幕府薩摩藩佐賀藩が各々で出展。福井の和紙等は世界一の神秘的な紙と評価された。養蚕、金銀蒔絵の巧緻で美しい漆工芸は大人気でグランプリを獲得。日本家屋では芸妓が酒や茶を供した。日本美術(浮世絵、琳派、工芸品等)が注目され人気を博し、ゴッホなどの印象派画家たちに影響を与えるジャポニズムブームのきっかけにもなる。
また、博覧会目当てにパリで公演した曲芸師らの妙技(独楽回し・足芸・浮かれ蝶)も大好評だった。

高松凌雲江戸幕府視察団の一員として参加、そのまま滞在して医学の習得に励み、外科手術器具等を持ち帰った。
渋沢栄一も視察団の随員として会計と記録担当で活躍した。 後に、凌雲の同愛社を支援することになる。
アレキサンダー・シーボルト(フォン・シーボルトの子・英国公使館通訳・21歳)が日本から随行した。
幕府(昭武以下30名)の渡航:
慶応3年1月11日(横浜出航・仏郵船アルフィー号)→3月7日パリ着(オペラ座-マドレーヌ寺院付近の宿)・3月22日(ブローニュで競馬見物)、3月24日、昭武はナポレオン3世と謁見式
この中に、会津藩・横山主税、海老名郡治2名が参加し「アムステルダムでの祝賀行事(下関・馬関戦争でオランダが勝利した記念行事)が見るに忍びず」と記した記録がある。横山主悦は鳥羽・伏見の戦いを知り、帰国、慶応4年5月1日の「白河口の戦い」で会津軍副総督として戦死した(「会津白虎隊」著 星亮一)
佐野常民(当時45歳)は佐賀藩団長として行き、帰国後、西南戦争で負傷者救済にあたる。後に日本赤十字社を設立。
佐賀藩(常民以下5名)の渡航:
慶応3年3月8日(横浜出航)→スエズ(←この間は汽車で移動→)アレキサンドリア→5月5日(マルセーユに到着)→5月12日(パリ着)
薩摩藩:14名を幕府より半年早くパリに派遣、仏政府と交渉して徳川・佐賀藩とは別の展示場を確保した。

1868年3月(五箇条の御誓文)・同年9月(明治改元)という時期で、佐賀藩・薩摩藩は高松凌雲ら幕府訪欧視察団と別行動をとる。

この他に、

ナポレオン3世(1848年12月~1870年9月・ナポレオン1世の甥)

当時の衛生環境は非常に悪く、建物上階から「アタンション(注意して!)」の声を掛け、汚物を通りに投げ捨てたという。

1873年:ウィーン万博

1878年:パリで3回目の国際博覧会を開催:
イギリスで1760年代に始まった工業化の進展で、社会が大きく変化していった。

フランスでは写実主義とともに印象派の運動(1874年に第1回印象派展)が活発になるが、これは保守的でアカデミック、古典主義的な考えに対する前衛的運動だったが、ジャポニズムはこの印象派に影響を及ぼした。

「精町から佐賀の乱を読む」片桐武男著 佐賀新聞社発行
国立国会図書館の資料

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