福童原合戦の碑

福童原合戦慰霊碑

正平14年(1359)8月、大保原の戦に勝った菊池武光は一時居城隈府(熊本県菊池市)に帰り
同16年8月、懐良親王を奉じて太宰府に入り征西府を開いた。それより九州に勢力をふるうこと約10年、明の使いを引見する等の盛時もあった。

京都では、九州における北朝の勢力を回復しようとして今川了俊(貞世)を九州探題に任じて太宰府を圧迫した。その勢力におされて文中元年(1372)8月、武光は親王と共に高良山に退去する悲運にあった。

文中3年(1375)8月、菊池武朝、菊池武安らは筑後川を渡って福童原に陣し、北朝方の山内、毛利、深堀らの軍と交戦、
この報を受けた了俊は自ら来て助けたので、ここに大激戦が展開した。
菊池軍は不幸にも敗北して9月17日再び高良山に退いた。

このような情勢の緊迫する中で菊池勢は肥後の菊池に引き揚げ、筑後一円は武家の支配に属するようになった。

古戦場の碑には「文中3年官軍の主力菊池武安等今川了俊と抗戦せし所なり」と書いてある。

昭和52年2月 小郡市教育委員会・小郡市郷土史研究会

 

周囲に住宅が建て込んでも、きちんと整備され、今も祀られていることに感心しました。
大保原合戦後、10年ほど経て、劣勢だった南朝軍が、
1375年に再び攻勢に転じ、大激戦を展開、敗北した場所です