国分寺

地蔵菩薩来迎図板碑

(久留米市宮ノ陣町宮瀬66)

石に線彫りされている地蔵菩薩来迎図左を紙に写されたもの

左:実物  右:模写複製 有形民俗文化財(考古資料)  昭和33年4月3日県指定

護国山国分寺は天台宗の寺院で本尊は聖観世音菩薩である。

板碑は高さ約1mの板状自然石の表面に左・右・下の三方を長方形の輪郭で囲んだ中に、地蔵菩薩来迎図を線刻したものである。
「沙門長弁 敬白 正平廿二年丁未九月日彫手 春助」の銘があり、室町時代の1367年に建立されたことが分かる。(県指定文化財)

大刀洗からこの一帯にはおびただしい戦死者が出て、その霊を慰めるために地蔵菩薩来迎図板碑が作られ、高良山に納められたといわれていますが、明治2年(1865)の神仏分離令で、板碑は高良山愛宕神社の奥の院から宮ノ陣・国分寺に移されたといわれる(「筑後将士談」「大宰府管内志」)
「青山堂筆記」によると、はじめ祇園山古墳に建てられていたものを元文(1736-1741)の頃、愛宕山に移していたという。
明治2年2月、高良山明静院住持だった霊徹が宮陣の国分寺に移転させられた時、明静院の2つの仁王像も国分寺門前に移されたということです。

宮の陣国分寺門前の仁王像


神仏分離令の発布:

  • 中央公論「日本の歴史・別巻・年表」によれば、神仏分離令は明治元年3月28日に出され、以後全国に廃仏毀釈運動が起こったとされている。  
  • ウィキペディアによれば、神仏分離令(正式には神仏判然令)〔慶応4年3月13日(1868/4/5))から明治元年10月18日(1868/12/1)に出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称で、全国的に行われた〕

後醍醐天皇の皇子である征西将軍懐良親は王念持仏である阿弥陀像を宮ノ陣神社の場所に安置し、一株の紅梅を植え百万遍を唱えたとされています。

懐良親王(吉野・南朝)は菊池武光・草野永幸ら宮方の軍勢を率いて、正平14年(1359)8月、南下してきた小弐頼尚らの足利方(京都・北朝)の大群と大保原(現在の小郡市から宮の陣)で激しい戦いを繰り広げました。これが日本三大合戦の一つとして有名な「大保原の合戦(筑後川の戦い)」で、懐良親王は筑後川を渡り、現在の「宮ノ陣」に背水の陣を構えたのだそうです。

明治21年にこれらの故事にちなんで、高良神社宮司船曳鉄門がここに神殿を創建しました。後征西将軍宮良親王(懐良親王の甥)を祀ったのが宮ノ陣神社の始まりで、明治44に懐良親王の霊を合祀しました。

境内には懐良親王お手植えと伝えられている将軍梅(紅梅)があります。また、大刀洗の地名は菊池氏が太刀を洗った場所と言い伝えられています。

この戦いは相当な激戦であったらしく、戦後、戦没者の霊を慰めるために、この地蔵菩薩来迎図板碑が作られ、高良山に安置されたといわれます。

しかし、明治時代の神仏分離令によって高良山から国分寺へ移されます。

「名誉住職の板碑についてのお話」

この板碑を拝見しようと再度伺い、御住職に上記のような話を伺いました。
(名誉住職は1911年生・明善校卒、石橋幹一郎氏の一年後輩、とてもお元気です。)
板碑は本堂祭壇の右手に飾られていて、暗くてなかなかよく見えません。
宮の陣神社の説明板も参考にしました。

このご住職の健康法を伺いましたら、一日を八時間づつ三つに分け、

  1. 1:睡眠
  2. 2:人のために働くこと
  3. 3:自分のために使う(食事・入浴・勉強等)

そして「快眠・快食・快便」 と即答されました。
お目にかかれ、お話を伺えたのは本当に幸運でした。

*)護良親王は大塔宮(だいとうのみや)とも呼ばれ、主に京都(比叡山座主にもなる)や吉野を活動拠点と、鎌倉市の鎌倉宮に祀られているそうです。

2010年7月1日

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