(久留米市宮ノ陣町宮瀬66)


左:実物 右:模写複製 有形民俗文化財(考古資料) 昭和33年4月3日県指定
護国山国分寺は天台宗の寺院で本尊は聖観世音菩薩である。
板碑は高さ約1mの板状自然石の表面に左・右・下の三方を長方形の輪郭で囲んだ中に、地蔵菩薩来迎図を線刻したものである。
「正平廿二年丁未九月日彫□春助」等の銘があり、室町時代の一三六七年に建立されたことが分かる。
この板碑は(一八六九)に発布された神仏分離令に際し、高良山愛宕神社の奥の院付近から当国分寺に移されたといわれている。
(久留米市教育委員会)
後醍醐天皇の皇子である征西将軍護良親は王念持仏である阿弥陀像を宮ノ陣神社の場所に安置し、一株の紅梅を植え百万遍を唱えたとされています。
護良親王(吉野・南朝)は菊池武光・草野永幸ら宮方の軍勢を率いて、正平十四年(一三五九)八月、南下してきた小弐頼尚らの足利方(京都・北朝)の大群と大保原(現在の小郡市から宮の陣)で激しい戦いを繰り広げました。これが日本三大合戦の一つとして有名な「大原の合戦(筑後川の戦い)」で、護良親王は筑後川を渡り、現在の「宮ノ陣」に背水の陣を構えたのだそうです。
明治二十一年にこれらの故事にちなんで、高良神社宮司船曳鉄門がここに神殿を創建しました。後征西将軍宮良親王(護良親王の甥)を祀ったのが宮ノ陣神社の始まりで、明治四十四年に護良親王の霊を合祀しました。
境内には護良親王お手植えと伝えられている将軍梅(紅梅)があります。また、大刀洗の地名は菊池氏が太刀を洗った場所と言い伝えられています。
この戦いは相当な激戦であったらしく、戦後、戦没者の霊を慰めるために、この地蔵菩薩来迎図板碑が作られ、高良山に安置されたといわれます。
しかし、明治時代の神仏分離令によって高良山から国分寺へ移されます。
「名誉住職の板碑についてのお話」
この板碑を拝見しようと再度伺い、御住職に上記のような話を伺いました。
(名誉住職は1911年生・明善校卒、石橋幹一郎氏の一年後輩、とてもお元気です。)
板碑は本堂祭壇の右手に飾られていて、暗くてなかなかよく見えません。
宮の陣神社の説明板も参考にしました。
このご住職の健康法を伺いましたら、一日を八時間づつ三つに分け、
と即答されました。お目にかかれ、お話を伺えたのは本当に幸運でした。