大江 幸若舞


大江天満神社

プログラム

濱出:鎌倉幕府の始まったのを祝って作られた。
日本記:日本創世の話
安宅(下):義経・安宅関(富樫氏が設けたといわれる)での話、後半
敦盛:一の谷の合戦で、忘れた笛を取りに帰った平敦盛は、同じ歳の息子を持つ熊谷直実に討たれた。直実は遺体を、沖にいる平家方、敦盛の父・経盛へ届けられた。経盛からの礼状を受け取った直実は、感じるところがあり、晒首になっていた敦盛の首を取り、出家して菩提を弔った。
高舘(上):義経、最後の館での話。
参考:(ww.motsuji.or.jp/gikeido)高館義経堂(岩手県平泉)
夜討曽我(上): 曽我十郎と五郎の兄弟は、富士の裾野で源頼朝の狩に参加した父の敵、工藤祐経を討つ機会を狙った。馬を走らせ、弓矢で狙える絶好の機会に、乗っていた馬がつまづき、兄は落馬して機会を失してしまった。
曽我兄弟は後に工藤祐経を討ち取るが、兄・十郎はそこで討ち取られ、弟・五郎は捕らわれて鎌倉への護送の途中、鷹ヶ岡(現在の富士市鷹岡といわれる)で首を刎ねられた。
毎年1月20日
開会式:午前11時30分から
上演:正午から
場所:大江天満神社幸若舞堂(みやま市瀬高町大江)
JR瀬高駅より徒歩20分
問い合わせ:みやま市教育委員会社会教育課
平日連絡先:0942(32)9183

幸若舞

中世の芸能として始まった幸若舞(発祥地:福井県越前町)は、歌舞伎など、日本の芸能や文学に大きな影響を与える舞楽として、早くから多くの研究者たちに注目されていたが、昭和51年5月、文化財保護法が定められると、第一回目の国指定重要無形文化財として全国から30の中の一つとして選ばれ、指定された。(現在では267が指定を受けている)
室町時代初期、武士道を鼓舞する舞曲として始まり、信長や秀吉、家康をはじめ多くの武将が愛好し、また、諸国の大名によって奨励され隆盛を極めたが、江戸中期より、時代の流れとともに、趣味の変化、能曲、俗謡が盛んになるにつれて次第に衰微し、明治時代には越前町、奥羽でも後を絶ったが、大江では「大江のめえ」と呼ばれ昔日の姿をそのまま伝えている。 所作は、大相撲の四股(地下の悪霊を鎮める)などと同様に、すべて宗教的な意味があるとされている。

幸若舞の起源

創始は源義家の末裔・桃井播磨守直常の三男・修理亮直信(幼名・幸若丸)で、幼時、比叡山で和漢の学を修め、歌曲を読むなどの学問に励んでいたが、その頃あった「双紙舞」という舞について、幸若丸は従来の節回しを勉強し、新しい調べを作った。それは吟詠晴朗で音声も律にあい、白拍子や曲舞に似た点もあり、幽玄な舞は見る人を驚かしたという。
その後、父に従い越前に帰った幸若丸は、父の死後に京へ出た。そしてうわさを聞いた天皇の前で演じ、称賛を受けて越前に100町の領地を賜った。1346年頃から世に知られるようになり、門人も増え、幸若丸の子・弥次郎直茂の時に桃井姓を改め、幸若と称し、この舞を幸若舞と呼ぶようになった。


中世の舞は朗吟と限られた所作で成り立っているそうです。

資料:当日頂いた印刷物から引用させていただきました

一応upしましたが、把握、理解が不十分です。