龍護山千光寺 (曹洞宗)

草創は治承四年(1180年)。栄西(千光国師)が、自彫の薬師如来・釈迦三尊像を山中に安置し、白銀山千光院を建立したのに由来する。初めは天台派だったが、栄西が再度の渡宋よりの帰国後はじめて臨済宗を開き、
建久3年(1192年)、草野太郎永平の保護を受け七堂伽藍、塔中七ヶ寺を建立し、「千光院」を「千光寺」に改めた。

当時の文書には、これをもってわが国最初の臨済寺開基(禅宗では日本最古のお寺)と記したものがある。その後、再三の火難にあい、建築物や寺宝の多くが失われた。

境内には征西将軍身や懐良親王廟があるが、応永27年(1420年)には、この親王の御霊を守り、火難を封じるため後小松天皇から「龍護山」の山号の勅額を賜った。

文亀二年(1502年)には草野重永が周防国富田の龍文寺から黙巌和尚を招いて、中興をはかり、以来曹洞宗に改め、草野氏や歴代藩主の保護を受け、寛永六年(1629年)には、筑後国の曹洞宗の本寺となった。

なお、境内には親王廟のほか、日本一の金木犀古木、巨木つつじ、あじさい園、県文化財指定の梵鐘、大檀那の草野永経、永平、重永の墓塔、江戸初期の筑後国三十万石余の大名田中忠政らの供養塔の所在も伝承される名刹である。

久留米市。

千光寺境内図

住職に伺った話によれば、親王陵墓(まんじゅう型)への石段等は、星野氏の流れを継ぐ星野房子氏の寄進によるもの。

拝見した資料の中、「戦死せし公卿の塔」

宮及追腹者の塔と同質の同形の小塔9個についての説明文。
どれが誰の塔かわからないが、宮の随従者で戦死した者の塔と伝えられてきた。

「延文四年(北朝年号)大原野大合戦のとき親王三創を負はせ給ひたれば其の危急を見奉るに忍びず御身を擁護し奉り是非に親王を落参らせんとて踏み止り敵に空しく打たれ給いたる月郷雲客十名あり」と述べられている。

御供養塔北側の塔頭は、「御陵墓考」から引用された文と現地看板と照合すれば、向かって左から右へ順に
○葉室左衛門督帷言○高辻三位○土御門右少弁○春日中納言輿文○北畠源中納言○花山院四位少将朝春○洞院権大納言○坊城三位有氏○日野左小弁資爵
の供養塔と思われますが、 資料中の北山三位中将の名がなく、(宮の塔前、左右にある塔の一つとされている洞院大納言親弘(もう一つが名和太郎)の名が看板にあること、官位名で大納言-中納言、少弁-少将の違いがあり、そもそも「御陵墓考」の中、延文4年という年号が使用されている点だけからみても(南朝方では正平14年=1359年)「御陵墓考」が北朝の立場で書かれたものと判断すれば、それが資料と現地看板の相違点の説明になるのか、など疑問点があります)
また供養塔や田中忠政公墓の南(図の左側=山側)には孟宗竹の林があり、御火化所(おかげしょ)=親王火葬の場と伝えられる。

昭和57年12月に親王薨去600年を記念した征西将軍宮懐良親王顕彰碑が建てられています。

梵鐘(有形文化財)

有形文化財 梵鐘

梵鐘の図解・各部の名称

山本町豊田2287 千光寺
昭和32年 県指定

征西将軍宮懐良親王にゆかりのある千光寺は、筑後国在国司草野永平が建久3年(1192)に千光国師栄西を招いて開山したという曹洞宗の古刹です。

当寺の鐘楼にかかる総高約110cmの梵鐘に、永和3年(1377)の北朝年号の銘があります。

境内には南朝の征西将軍宮の御陵墓や宝筺印塔が伝わり「北朝」と刻まれた梵鐘があることに、複雑な当寺の世相がうかがえます。

梵鐘は鎌倉時代の特徴(簡素で力強い作風)をもつ貴重なものです。

久留米市教育委員会

聖徳太子以来、日本に入った仏教(奈良仏教系=南都六宗系)は国家鎮護の道具となり、平安末期には、政治的な力を持ってきた。

桓武天皇は、それらの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせ、平安仏教系・密教系=真言宗(弘法大師「空海」)・天台宗(伝教大師「最澄」)で、奈良の旧仏教に対抗させようとした。

栄西(1141年-1215年)は天台宗を立て直すため、平氏の庇護を受けて南宋に留学したが、当時繁栄していた禅宗を日本仏教を立て直すために必要と考えて、禅を学びその教えを持ち帰ることにより、次第に民衆の救済のためのものとなっていった。

栄西は2度目の渡宋後、建久2年(1191)に帰国し、建久3年(1192年)「千光院」を「千光寺」に改めた。
これが日本最初の禅寺で、それについで建久6年(1195年)聖福寺(日本最初の禅道場)が創建されるなど筑前、肥後を中心に布教に努める。
栄西は在宋中、茶の効用と作法を研究、茶種を持ち帰り栽培し「喫茶養生記」を著すなどして普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても尊崇されています。

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