通称、祇園社で知られている本社は建久八年(1197)平家討伐に軍功のあった竹井城主、草野永平が勧請したといわれ、代々城主の崇敬が厚く、草野家が豊臣秀吉の九州征伐のおり滅亡した後もこの町の氏神として祀り崇められました。
祭神は素戔鳴尊で、現在の神殿は明治十九年改築された欅の権現造りで拝殿、楼門とともに調和豊かな彫刻美を見せ、県の文化財に指定(昭和12年)されています。
(以上、神社前説明板:久留米市による)

(以下は、h20年の神社御神幸ポスター、「久留米市史」の第5巻から引用しました。)
風流縁起によると、文政十一年(1828)神幸祭が起り、神幸行列が演じられていたようである。当社は、以前、勝光山祇園寺と称し仮宮を祇園塚と称して、その間の御神幸であった。明治二年(1869)の神仏分離によって須佐能袁神社と改称され、明治十九年社殿再興後、風流に大名行列、獅子舞が組み入れられた。
また、以前は6月13日、14日に行われていたが、新暦に変わって(明治5年)7月に変更され、昭和55年再開したとき現在のように夏休みに入った最初の土、日曜日となった。
若宮八幡宮御神幸は放生会(ほうじょうや)ともいわれ、それに対し、こちらの行事は「祇園さん」ともいわれます。
須佐能袁神社の神幸行事(平成20年ポスターより)
神が山から村里に降りて人々の願いを聞き、再び神社に帰られるという神事を「神幸行事」と総称するが、土地によって御幸・御出・御旅などともいわれる。
この神社の神幸行事は、風流・獅子舞・大名行列の三つに分けることができる。
午後五時、神社拝殿にて神事があり、その後境内で風流が演じられ、次に獅子が境内を出発し大名行列が行われる。
大名行列は、赤と黒の面をつけた鬼が先払いに立ち、台弓、御箱、毛槍の行列が続くその後に、御輿・大傘・神官・巫女・楽人・総代と続く。
行列は笛方の笛に合わせて進むが、あらかじめ決められた要所で、大名行列の儀式が行われる。獅子舞も神迎えの豪快な舞を行う。
昭和59年(1984)市指定となったこの行事の概要は次のとおりです。
(久留米市史の掲載記事なので、時間、内容等は変更されている可能性があります。)

| 方(かた・太鼓持) | 8人 |
| 太鼓打 | 3人 |
| 笛 | 4人 |
| 大鉦 | 1(打手2) |
| 中鉦 | 1(打手2) |
| 小鉦 | 40人 |
| 行司 | 1人 |
| 鬼(だごめん)方 | 3人 |
| 行列 | |
| 大弓持 | 2人 |
| 御箱方 | 4人 |
| 人傘 | 2人 |
| 立傘 | 2人 |
| 大羽車 | 3人 |
| 飛槍 1本目 | 2人 |
| 2本目 | 2人 |
| 3本目 | 2人 |
| 押脇 | 2人 |
| 押 | 2人 |
| 方 | 4人 |
| 巫女 | 3人(交替共8人) |
| 御神輿 | 6人(8人の2交替) |
| 大傘持 | 1人 |
| 大刀持 | 1人 |
| 方 | 6人 |
| 雅楽 | |
| 太鼓 | 1人 |
| 太鼓持 | 2人 |
| シチリキ | 7人 |
| リュウテキ | 4人 |
| 神主 | 2人 |
| 宮総代 | 12人 |
| 後見人 | 12人 |
風流の行司が持ち、読み上げる一巻の巻物「口上」は、下記のように由来を述べたもの。
「そもそも、この草野風流と申すは昔草野庄、九瀬川の河泊(かっぱのこと)より不思議の教えを謂い、当社祇園午須天奏し来たり。然るに草野殿、天正15年子歳太閤秀吉の為に没落におよびこの楽たえたり。再興の時至るかな幾百歳を経る事はるかにすぎて、文政11子年故ありて昔を今に返し、水無月の御幸の年毎に幾千代尽くせぬ風流の楽を奏し神霊をしづめ天下太平、国家安のんを祈る物ならんとしかいふ。はやはや皆奏し給へそうしたまへ 干時 文政11子歳 6月」