「堰のながれ」(床島堰)

1)所在・名称

床島堰は三井郡大堰村の東端(元床島村)にあり、中御門天皇の《正徳2年(1712)竣工・同年、改築》6代藩主有馬梅巌公(則維)の時に完成した。

筑後川の水を堰止め、その北岸から幅約28間(≒50.1m)の新溝を掘り、河流を導き、遠く三井郡一帯の平野までを灌漑する。

床島堰は、新溝の起点から下流約550間を隔てて溝の南岸に造った(上口幅72間(≒129.1m)、下口幅66間(≒120m)、長さ36間(≒65.5m)積み、溝岸の高さより少し低くしたので増水時には、ここから溢れて筑後川に注ぐ(溝の放水)。
更にその下流、約240間(≒436m)の南岸には北から十字形に新溝を横断する佐田川に佐田堰を設け、河水を新溝に合流させた。

上口幅42間(≒76.3m)、下口幅22間(≒40.0m)、長さ38間(≒69.1m)。石を積んで溝岸より低くしているのは床島堰と同じで溝水調節の用を果たす。

石を積んで筑後川を堰き止めた恵利堰は上口幅170間(≒309.3m)、下口幅122間(≒221.8m)、長さ140間(≒254.5m)で最も困難を極めたが、筑前国との紛議になることを恐れて筑前領の境にあった恵利堰と呼ばず、床島堰と総称した。

2)起工の発端

筑後川の北岸平野部に位置する御井郡、御原郡(現在の三井郡は、御井御原両郡と河南の山本郡とを合併したもの)は昔から水利に乏しく、必要時に雨がなければ、居民はすぐに飢饉に陥り、各村は年々疲弊してきた。 だから、長い間の「なんとか水を得たい」という願いは、浮羽郡大石水道(寛文4年<1664年>3月完成)の開削をきっかけに、一層高まった。

大石水道のように一大水道を開削すべきと各村庄屋が唱えたが、工事地点となる床島村付近では筑後川の川幅が広く、水深く、急流だった。さらに、現場は竹野御井両郡と肥筑両国境に位置し、工事の困難・折衝の煩雑さも想像されるので率先して工事に当たる者がいない。

そうして40年が過ぎた後、鏡村庄屋六右衛門、稲数村庄屋清右衛門、八重亀村庄屋新左衛門、高嶋村庄屋甚右衛門等が思い立ち、大衆を鼓舞し、起工にこぎつけた。中でも鏡村庄屋六右衛門は年齢30歳で胆略・知謀があり最も奮進努力した。

3)宿志貫徹

六右衛門は、ある年の伊勢参拝の途中、大阪川口で米穀酒樽等を満載した多数の船を見て、ますます新田開墾の意欲を強くした。 参拝から帰り、ある夜の夢で、神の告げとして「不次の根や三葉四葉の富草?:一字不明」と聞き、目覚めてその言葉を書きとめた。

同様の願いを持っていた北野村大庄屋善左衛門に見せると「これは連歌で、富草とは稲の事。新田成就子孫繁栄の意味だ」と新田開墾をすすめたので、六右衛門は大いに意を強くした。

宝永7年<1710年>、旱魃のため、居民がしきりに流離するので、六右衛門は水道開削を企図し、まずは郡総裁の本荘主計・市正父子の意見を聞こうと考え、折よく立ち寄った藩目付、遠山氏の隠居六郎左衛門(当時70歳、元気で慈悲心に富み、本荘父子と交友があった)に水道開削の必要性を説いた。この話を聞いた本荘父子は非常に感じ入り、出願について家老と交渉をして、廻状を出した。

廻状写し(概略)

  • 「1、畑田の事
    • 1、野開の事
    • 1、山開の事
    • 1、山中猪寄その外植立の事
    • 1、藪開の事
  • 上の条の中、希望する事があれば、他領他村のことでも遠慮なく出願するように。たとえ近郷近村にとって障りがあっても、申し出れば、よく検討する」ということを御家老中が仰せられた。以上
  • 寅5月24日 本荘百助(後に主計と改名) 同加兵衛(後に市正と改名)

4、出願準備

当時、病床の六右衛門は廻状を見て、すぐに高嶋村庄屋甚右衛門父子を訪ね「以前から切望していた水道開削が出願できるようになったが、一命をすてる覚悟がなければ成功はおぼつかない。あなた方の決心はどうか」と。彼らも覚悟していたので賛成した。そこで六右衛門は公儀に対する任務に従い、どんな障害があっても必ず志望を貫徹するとし、金銀その他の支払は甚右衛門が引き受けることを堅く約束した。

六右衛門は願書作成のために、6月18日、晴天の時、八重亀村庄屋新左衛門、大城村長百姓長右衛門、高嶋村庄屋甚右衛門、同村長百姓喜兵衛手代又左衛門、山本郡蜷川村卯左衛門等、開墾に秀でている者同士で検討して南蛮曲尺を作り、船に乗って床島へ行き、筑前境早田村分に痕跡のあった古荒籠の所に曲尺を立てた。六右衛門と又左衛門は水に入り、川筋に目当てをつけ、要所で測定しながら川を下った。

鏡村東川表堤内「くわんじ」という高畑まで、高低差が一丈六尺五寸(≒5.47m)あることを測定し、一同大いに喜んだ。 この報告を受けた総裁、本荘市正は早く願書を提出するように伝えた。

さらにこの道の名人の竹野郡田主丸溝廻り六郎左衛門、八重亀村大工甚左衛門を雇い、鏡村庄屋六右衛門弟輿左衛門、高嶋村庄屋甚右衛門手代又左衛門、赤司村又三郎、各村の庄屋が同行し、床島村上古刎の水上から御井郡江戸前堤までの間を曲尺で測量して水乗の十分なことを確かめ、願書を作成した。(宝永7年《1710年》8月)。これを願う村は次のとおり。

御井郡

  • 守部村、八重亀村、高嶋村、鏡村、大城村、乙吉村
  • 乙丸村、赤司村、山須村、稲数村、仁王丸村、塚島村
  • 中島村、千代島村、陣屋村、中村、今山村、十郎丸村
  • 高良村、鳥巣村、石崎村、上弓削村、江戸村、染村、下川村、安永村

御原郡

  • 今村、下高橋村 (計28か村)

5、願書提出

昼夜兼行で絵図の設計と願書類を作成し、提出する時、なぜか上弓削、江戸、染、下川、安永、今、下高橋の7か村は参加せず、残り21か村が連判した。 宝永7年(1710)10月20日、六右衛門はこの願書を郡奉行国友覚右衛門沖長兵衛に提出し、口頭で床島村付近での水陸の高低について詳細を説明した。この際、北野大庄屋善左衛門の力添えも大きかった。

6、設計の大要(当初の見積書、願書等による)

  • 1、筑後川を恵利瀬で堰き止め、一部に水余しを造り、船通しとする。
  • 2、堰の北岸から床島に向けて一大溝渠を造り、河水を導く。
  • 3、床島に設けた水門で取水した後、江戸前までの1千200余間(≒2181.8m)の溝居を流し、そこから分水し、曲折廻流して30余村の田畝を灌漑する。(床島に水門を造ることは後に設計変更する)
  • 4、新溝が開通すれば古田800余町歩(≒793ha)の灌漑はもちろん、開墾して700余町(≒694ha)歩の新田を得られる見込みがある。
  • 5、今までは上納米も不足がちだったが、開削すれば米大豆差引1か年で約7,000俵の増米がある見込み。
  • 6、必要経費は約50貫目。
  • 7、この経費は久留米藩府から借用し年賦で返納する。
  • 8、人夫おおよそ8万余人を要するが、これはすべて郡役にする。
  • 9、水道に必要な材木(松5、6寸角(≒19cm)長さ2間1尺物(≒210cm)5263本・楠板長さ2間1尺(≒210cm)厚さ2寸物1065枚・6尺(≒1.81m)杭木2970本・竹860束・その他各種用材は付近の官山から無料で払下げを受ける。
  • 10、領内の大工だけで不足するときは他領から雇入れる。
  • 11、石材運搬船25隻が必要である。
  • 12、山石600坪・割石908坪・石俵58200俵は御井山本両郡内便宜の山から無償で採掘する
  • 13、諸品買入のため銀10貫目(≒37.5kg)を前借する

(以上は第一工事の分で、第二工事以下の設計書は根拠となるものはみあたらない。)

7、筑前領の抗議

時の久留米藩主有馬梅巌公(則維)は、六右衛門の書を見て喜び、家来に命じて便宜をはからせた。工事監督として野村宗之丞・草野又六を遣わし、官林の伐採を許し、銀子を貸与した。

工事着工を聞いた筑前領の村民は大変驚き、「たとえ筑後領でも筑後川を堰き止め床島に水門を設けるなら、洪水の時、筑後川沿岸の筑前領は総て水底に沈んでしまう」と川越六之丞という者が十一か村の庄屋連署の抗議書を久留米藩府に届けて、訴えたために藩府は迷った挙句に中止し、一年余が過ぎてしまった。

鏡村庄屋六右衛門は残念に思い、しばしば久留米に行き、目付役の大田市之丞に相談したが、処置に苦しんだ市之丞は、「この上は九州屈指の名社で霊験も著しい高良山玉垂宮で丹誠を込めて神護を祈ったらどうか。」と言った。六右衛門はすぐに久留米から高良山に登り、12月8日午後10時から神前組戸の内に参籠して断食7日間、ひたすら祈った。15日の満願の朝、粥を啜って帰った。その願いが通じたのか、藩府は起工することに決定した。

そこで草野又六は、稲数村庄屋清右衛門、八重亀村庄屋新左衛門に大城村長百姓長右衛門と高島村手代又左衛門をつけて、筑前徳淵村大庄屋空閑弥左衛門方に遣わし
「先の抗議がとんでもないこととは思わないが、隣国のよしみとして譲歩し、水門を20町程引き下げ、溝岸の堤防も築かず、筑前領に差し支えないようにするが、それでどうだろうか」と尋ねさせた。さらに「筑前領の村々に差し障りのないように工事に着手するが、それでも不都合な点があればいつでも連絡されたい」といった内容の手紙を送り、いよいよ着工することになった。

8、工事役割

正徳2年(1712)正月21日、担任者を次のように決めた

  • 一、普請奉行 野村宗之丞
  • 一、普請総裁判 草野又六
  • 一、御用手伝御用聞 
    • 鏡村庄屋 六右衛門・守部村庄屋 善太郎
  • 一、溝筋諸品裁判   
    • 稲数村庄屋 清右衛門・八重亀村庄屋 新左衛門・大城村長百姓 長右衛門
  • 一、金銀仕払預かり役
    • 高嶋村庄屋 甚右衛門・同? 輿三衛門
  • 一、書付絵図     
    • 大城村庄屋 三左衛門
  • 一、水道大工山方   
    • 高良村庄屋 理左衛門・赤司村庄屋 吉右衛門・陣屋村庄屋 喜兵衛
  • 一、会所諸受拂   
    • 千代島庄屋 市右衛門・石崎村庄屋 彦右衛門
  • 一、鍛冶山方
    • 鳥巣村庄屋 三郎左衛門・十郎丸庄屋 庄左衛門・塚島村庄屋代 惣助

9、工事

正徳2年(1712)正月21日から河堰工事・溝掘工事等、皆同時に開始した。

又六は善右衛門宅に、六右衛門善太郎は半左衛門宅に宿し、毎日未明から現場に出て、3500人の郡役夫を指揮した。溝掘工事は着々と進んだが、堰水工事の困難さは普通ではなく、大木、巨石を投げ込んでも木の葉のように皆押し流されて効果がなかった。

又六も方法が見つからず、失望して実家に帰り、一室に閉じこもり、悩み苦しんでついには病になろうとした。(又六は筑後山本郡蜷川村、鹿毛宗五郎の次男で同群草野村草野五左衛門の養子となった。人となり俊偉胆量絶倫、水利開墾の術に長じていたので抜擢されて士班に列した人だが、この人でもこれだけ悩み苦しんだことは、工事の困難さを示している。)又六の母は優れた人で、又六の煩悶しているのを見て、彼を門前に呼び、耳納の山脈を指して「こんなにたくさんの土石があるではないか、これを使って河水の堰止められないことがあろうか」と厳しく又六を励まし奮い立たせた。

又六は石・礫を積んだ数隻の古船を水底に沈めて基礎を作り、付近の山々から数十万の大石を運ばせ、近村の廃碑も集め、小石は別に俵に詰めて50万俵を作り、2月晦日に3500の人夫をすべて堰所に集め一時に沈めた。

巡視中の家老有馬壱岐が思わず「前代未聞の壮観」と叫んだほどだが、船から沈むるものあり負うて投ずるものあり、抱えて運ぶものありと、様々な方法だったが指揮が良く、進退乱れなかった。 さらに働くものには賞を与え、そうでないものには罰を与え、人々は本当に良く働いた。

このようにして石堰もほぼ完成し、河水はようやく新溝に入った。 筑前領の抗議で水門の設計を変更し、新溝口から約36町床島堰から約20町の溝末を江戸前に造ることになった。

又六は水門を江戸前に造り、その流れを各村に分けようと3月上旬から人夫を各所に配し、幹線となる数條の溝渠と支線になる数十百條の小溝の開削に取り掛かったが、恵利瀬の石堰は急な工事で、未完成のため漏水が多く、新溝に注ぐ水量が予想通りにならなかった。

3月20日、本荘主計は実地検査し、宿所にしていた塩足宇兵衛宅に帰った夜、普請奉行野村宗之丞・草野又六を始め諸役の庄屋を召集して「新溝の水量が甚だ不足している。止むを得なければ鏡村高嶋村の古田筋迄でも灌漑できる方法はないか」と話すが、皆は顔を見合わせるばかりで答えられず、ただ悩むばかりで時を過ごし、夜半に各々が帰る時には大雨が降りしきり、帰路の困難さは一層苦痛の情を増させたという。

この夜、又六は高嶋村庄屋甚右衛門宅の表座敷で、本荘主計の問に答えられなかったのを恥じて眠られず、甚右衛門と一緒に研究した。次の間の六畳敷に休んでいた六右衛門も眠らずに考えをめぐらした末、方策を考えつくと又六に「私に案があるので、井上組の人夫106人と枕木・集まっている空俵を使わせてください。明後朝迄には必ず新溝に水を流せます」と言うのを又六は許した。

六右衛門は21日の夜床島に行き、井上組人夫を集めて「今夜の非常に大切な工事のために最も強力だと考えている井上組の一同を集めた。私の命令に従ってよく働いた者には明日休暇を与えるが、もし命令に従わないようならば、厳罰に処される事になる。」と言った。こうして佐田川で西岸、河口から六十間の間、一間幅を開削し、河口には斜めに杭木を立て小石を俵に入れ、4人で持って杭木の間に踏込み、新溝は河口の対岸に多数の杭木を打込んだ。このことで佐田川は水嵩を増し、新溝に流れ入る水量が増えた。六右衛門は、本荘主計・草野又六等を船で迎えに行きこれを見せた。

皆が『六右衛門大出来々々』と褒め称えた。「六右衛門は棹を取り、船を鳥飼村下に漕ぎ付けた」との記録を見れば水量もほぼ想像ができる。 このように素早く、しかも夜陰に工事の作業をしたのは筑前領との紛議を起こさないためだった。(佐田川は筑前領だった)この件からも六右衛門の知略が優れていたことが伺える。

水門の位置は床島より下流の江戸前に設けることになった。溝末にあたる各村の庄屋は水量の充分なことを確認して本荘主計に願って、水門を引き下げ、江戸前より地が低い金繰池(江戸前より南約200間)の中程に据付けようとした。

3月晦日、高島村庄屋甚右衛門と善兵衛は堰所に来てこの事を伝えた。それを聞いた六右衛門と又六は大反対だった。六右衛門は反対理由を書いて藩府に報告するために久留米に行こうとした時、実地検査の報を聞いて取りやめた。 翌4月1日、本荘主計は庄屋及び各役人一同を江戸前に集めた。又六と六右衛門の2人は南側に、その他は皆北側に並んだ。本荘主計が「水門工事はもっとも重大な工事であるから、各々私を離れて意見を闘わすべし」と。又六は「水門を引下げれば将来永く上方面を郷(高嶋方面を上郷、北野下郷という)を灌漑することができなくなる。だから位置の変更をすべきではない。」大工頭安部次兵衛は「曲尺(測量)を誤った。水門を下げなければ水は通らない」と。六右衛門は「もう水は水門の前に来ているのではないか。必ずここに水門を通すべきである。どうか決行してください」と。又六もこれに賛成する。 このようにして他には異議を唱える者が一人もないので、主計もしかたなく予定決行を命じ、4月2日から昼夜兼行で水門敷設作業を行い開鑿を終えた。

溝末の庄屋達が言ったようにその地が高くて水がここまで達しないかどうか・・・。又六は真っ赤な顔で黙っている。六右衛門は暫く目を閉じ、遥に高良山玉垂宮に黙祷し、その後堰を見ると溝水は次第に増して水門に上がり、サラサラと流れて何の障りもなかった。水勢の惰力でこのようになったようだ。六右衛門はこれを神霊の冥助とし地に伏して感泣したという。 水門は高低2ケになっていた。一つは高さ5尺幅6尺、一つは高6尺幅6尺5寸各々長さ12間構造でとても堅牢である。 この水門を開けば、其水が2条の幹線によりて一つは上郷へ、一つは下郷に走り、各々多数の支線で各村に至り、閉じると溝水全部が小石川の流れに合流する。運用が自在である。

このようにして床島堰はようやく大体を落成し、各役人始めて我が家に帰った。その外泊は八十日。よく務めたといえる。本荘父子は非常に喜び、功労の顕著な数人を自宅に招き慰労した。招いた人は以下の通り。

10、恵利瀬堰改築

床島堰は正徳辰2年(1712)正月21日に起工、同年4月13日に完成。その年には古田約800町歩新田約400余町歩に灌漑していたが、新田もその年からよく上がり1反から約6,7俵が採れたという。
しかし恵利堰には船通があるので多量の河水がこれより流れるので新溝への注入は充分ではない。そのため、各村まだ用水が不足した。その上、御原郡の平田、児島、上高橋、甲條、鵜木、古賀、八町島、恋之段、森、五郎丸、の十ケ村も配水を願い出てきたので、これを認めれば前願村28ケ村と併せて計38ケ村となって水量はますます不足するはずなので久留米藩府は正徳4年、恵利堰の改築を計画した。時の上奉行は田山善兵衛で普請奉行は野村宗之丞、総裁判は草野又六だった。
又六は、船通しを閉塞して石堰を増築し、筑後川の水を全部新溝に注入しようとした。船通しは新溝の起点から下流約450間のところから中曽の地を削り筑後川に通す計画を立てて工事に着手した。中曾は筑後川と新溝に挟まれる半島形の地で当時竹野郡早田村の領だった。また、ここは筑前領の長田村に接して、永い間荒廃してその境界はほとんど分からない。長田村の民は又六の計画を聞いて大いに驚いた。 もし恵利堰の船通しを閉塞すると河水が停滞して長田村の土地は甚だしく湿潤し、ために耕作を害し洪水に際しては多大の惨害を醸すべしと考えたからである。だから中曾は筑前領であると主張して工事の妨害を始めた。 石堤を筑前領の岸に築いて水勢を強くして、それで恵利堰の破壊を試み、又は乱杭を植えて作業船の通行を妨げ、あらゆる手段でこれを妨害した。又六非常に困惑した。

この時、早田村庄屋善左衛門が「この地は我が祖先以来、早田村分と定められている。どんな抗議があっても私がその責任を取ります。ためらうことがありましょうか」と言った。又六はこれに励まされ、毎日2000の人夫を指揮して工事をした。
ある日、人夫に紛れて長田村から6~70人が乱入して、いきなり投石を始めた。我方も応戦して、大参事になろうとした時、12~3人のきちんとした身なりの者が長田村の百姓といって又六の前に進んできた。「この地は筑前領である。なぜこれを開削するのだ。」と詰問する。この時善左衛門が進み出て「この地は我が祖先以来我が早田村領と定まれり。故に余は襄に之を有司に証せり粗忽あるべからず」と反論したのをたちまち多勢で取巻き、長田村に連行した。長田村の百姓と称した12,3人は福岡藩士だったことが後に判明した。 そして長田村では善左衛門を取巻き、昼夜厳しく責めたが、善左衛門は怯むことなく前言を主張したので、最後には善左衛門の手をとって無理に誤り状を書かせようとしたが、これにも応じなかった。三か月余番卒を付けて日々迫ったが屈服しなかったので、なすこともなく解放した。

善左衛門はその責めが原因で身体の自由を失い、そのことが彼の死因となった。 又六は、この間に昼夜を分たず工事を急いだので間もなく改築工事が竣工した。 これで恵利堰の船通しは閉じられ、河流の全部が満々と新溝に注いだ。船通しは新たに中曾に開削され、水流奔瀉して飛瀧の如し。行船は筑後川より新溝に入り、この船通しを過ぎて再び筑後川に出るようになった。

もともと早田村は、中曾は河北に有ったが、そのほとんどは河南の地にあって、水道が成就したからといって少しもその恩恵を得ることもないだけでなく、中曾の地は石堰の下になったり、荒地となってすべてを失った。
善左衛門はこのことを敢えて考えず、他の郡の益(公益)のために一命を掛けた。彼の義侠心に敬服しないものはない。善左衛門が築堰工事をやりやすくした功績は決して忘れてはならない。 その後も筑前領がしばしば乱杭を立てて妨害を加えてくるたびに、善左衛門の子、善六という者は漁夫の格好で夜中ひそかに水に入って杭を抜き取り父の遺志を継いだという。

11、灌漑反別その他

堰渠が完成し、漸次畝田を増し従て用水路も延長せられ灌漑普く38か村に及ぶ。 享保10年から、この用水筋の取締りは全部、北野村大庄屋秋山氏に命ぜられた。 同庄屋が元文元年(完成後23年)に実測した所では以下の通り。

灌漑反別

1939町2反8畝15歩 以前は古田800余町歩だったが堰渠竣工の翌年の作付は古田887町4反余新田540町2反余。計1427町7反余となった。 23年の後には古田新田合わせて1939町余となり、その当時、約300町歩の田畝が灌漑の恩恵を受けている

参考:1町の10分の1を反または段という。

  • 条里制では、一辺の長さが1町の正方形の面積(1町が60歩なので3600歩)を1町(町歩)としていた。
  • 太閤検地の際に3000歩(坪)を1町とした。
  • メートル条約加入後の1891年に120haを121町と定めた。

現在 1町は約0.9917ha(9917㎡)、1k㎡は約100.83町で、1町≒1ha 1丈は約3.03m

12 、竣工後の筑前領との関係

床島堰渠工事に対しては筑前領の抗議が激しかったが、竣成後、実際には吉末、倉岡、白鳥、村などは、かえって水利を得るようになった。洪水の時も以前と大差ないのだが、感情的に恨みを抱く事が深く、その妨害は工事当時からと変わらなかった。ある時は乱杭を植え、ある時は溝堤を毀ち、ある時は堰石をうばい採った。 享保21年6月出水の時、筑前領のものが多数、夜風雨に乗じて井堰破壊を企てた。番人の善左衛門父子が死力を盡して漸く之をぬすまれること無きを得たり。これから、藩府は防御のために常に銃五挺弾薬若干を番人に持たせることになった。 又長田村付近は別に大なる損害ナシとはいえ佐田川を堰き止めたる結果土地の湿潤漸くその度を過ぎるに至れり。依りて下長田村より一直線に西に走り、佐田川を貫き進んで新溝に至る湿抜溝を掘った。その長さ十数町また佐田川の下流にも支線を作り、湿抜の用に供し、前者とともに新溝の底下を貫き筑後川に流した。この工事で土地が乾いて更に耕作に妨げがないようになった。

13、表彰

第一工事竣工後、即正徳三年の秋、本荘主計は藩主に申し出て、床島堰渠工事に関し、鏡村庄屋六右衛門の功労が抜群だったことを、草野又六に米石下賜の恩命あるべき事を(米40俵の筈だと)伝えた。

しかし六右衛門は、「この堰渠の成功は神仏の冥助と藩主の威徳、主計・又六両氏の勤労とそういう時期だったので、私たちのようなもの(匹夫)は、ただこれに参加しただけで何の功績もない」と、固辞して受けなかったという。その精神の高潔なことは聞くものの襟を正さないものはない。 明治19年、御井御原郡山本郡長、川村作研摩氏の申請で時の福岡県令は以下のように追賞された。

山本郡草野村

故草野又六

生前筑後国御井郡御原郡の養水に乏しく常に干害を蒙り地痩せ穀物の実らないことを問題として、故高山六右衛門外三名と力を協せ堅忍不撓の心で多くの困難を乗り越え幾多の資材を提供して床島一大堰を竣功させたことによる公益は大きいので金30円を追賞する。

明治19年6月9日

福岡県令代理 福岡大書記官従5位勲六等 伯爵 廣橋賢光

御井郡元鏡村

故高山六右衛門

生前云々(前同文)故秋山新左衛門外3名と協力して以下同文

御井郡八重亀村

故秋山新左衛門

生前云々故中垣清右衛門外3名と協力して以下同文

御井郡稲数村

故中垣清右衛門

生前云々故鹿毛甚右衛門外3名と協力して以下同文

御井郡元高嶋村

故鹿毛甚右衛門

生前云々故草野又六外3名と協力して以下同文

14、雑件

床島堰渠工事費に久留米藩府から借用した銀子は享保16年から5か年賦で徴収し返納した

草野又六・鹿毛甚右衛門はこの工事に各々多額の私財を提供したと伝えられるが、その記録がないので金額は分からない。

中曾の地は堰渠敷設以来、約35年間は荒地のままだったが、
寛延4年その9660坪の地に櫨を植え、そこからの収穫を水道修繕の費にあてることとして溝下各村から人夫を出し、櫨苗1610本を植え付けた。同時に松苗も植え付けたのでそれらが成長した後は秋季には紅緑相映して景色がとても良くなった。

寛政5年(植え付けより約45年)河川調査をした時、洪水になれば植えた櫨のために浮羽郡の水害を増すものと考えられて番小屋筋以南の分は伐採した。現在鬱蒼と茂っている松楠の大木はこの時代のものである。となればすでに160余年の齢令を重ねている。

文政7年、竹野郡早田村庄屋善次は(善左衛門四代の孫)中曾荒地に茶樹を植え付けることを出願した。しかし善左衛門は築堤のために一命を犠牲にし多くの中曾の地は没収されて家運は次第に傾き、善次の代にはいよいよ窮境におちいったので、止むなく嘆願を出したのだが、洪水の関係上、異議が多く、藩府も許可しなかった。このことを聞いて涙を落とさないものはなかった。

草野又六の人物は工事の概要からでも推測できるとはいえ、それだけでは不十分である。
又六は孝親の念が非常に強かった。彼は、草野の養子となっても父母の事を忘れず、毎日必ず草野村より約一里を隔てた蜷川村に行き父母の安否を確認した。厳寒酷暑の中でも終始一貫して行ったという。途中、大橋村にある橋は架設が不完全だったのでいつも河水を渉ったという。
これは父母にいただいた身体を傷付けてはいけないと。公事には大胆なのに、謹慎なことは感服するばかりである。

15、床島堰渠創築関係者の一班

経営の有司

民間の勤労者

以上、記述してくるとこの工事の偉大なことを感じる。今も現に井堰の水は洋々と流れて尽きず今日でもその余沢はますます大きくなっている。将来の事は推測するばかりだが、堰下の民は皆、謝恩の気持ちで農事に励み、その遺志に倣って力を公益に致すべきである。

大正2年10月21日 福岡県三井郡長従6位勲5等 左 正武

床島堰築造図絵由来記文(残念ながら不鮮明)

草野又六翁胸像

草野又六翁胸像建設委員

  • 委員長)草野:吉木光男・ 副)金島:井ノ口結

委員

  • 草野 :鏡山誠之助・久富正・秋吉昇・草野虎太
  • 宮ノ陣:橋本正・八尋初喜
  • 金島:高杉幸正/大城:光安俊平
  • 弓削:権藤倉太/味坂:井出 義
  • 太刀洗:秋山喜兎(順不同)


胸像建設

  • 設計者  野口正登
  • 胸像製作 伊東康忠
  • 台石製作 古賀正登
  • 撰文・書 緒方武人

三井郡床島堰は、灌漑面積3000余町歩(≒29751ha)に及ぶ大工事で、流域に及ぼした様々な恩恵を忘れぬよう伝えるために、かろうじて残る当時の覚書の類7、8冊(下記)を参照しながらの実地踏査と古老数名からの聞書きの概要を記録した。

  • 久留米藩府記録正徳2年の部1冊
  • 明治16年御井御原山本郡役所土木係の編纂した床島井堰落成履歴1冊
  • 明治41年山口庫太氏の編纂した床島堰渠竣工事蹟1冊
  • 明治43年宮崎来城氏の筆になる鬼工録
  • その他久徳新七、樺島石梁、広瀬光などの諸先輩の堰碑の記文等

発刊に寄せて

草野又六翁が設計した三井郡床島堰は
正徳2年(1712)正月21日起工~4 月13日竣工(工事期間は80余日)。以来256年を経て、しかも尚狂いのない工法には驚嘆の他はない。
また昭和38年12月より昭和40年5月に至る間、国家事業として大改修工事が施工され、近代的、万全な工事がなされた。

草野又六翁遺徳顕彰については多年の懸案だったが、草野町有志と床島堰受益者で協議し、合意できたので、縁のある地、発心公園に胸像を建立することになった。

胸像が完成し、除幕式を挙行するに当り、
大正2年10月21日床島堰200年祭の折、時の三井郡群長左正武氏が又六翁・五庄屋の苦心の全貌を詳細に記述された「堰のながれ」に、更に草野又六翁の胸像写真、碑文、床島堰工事に使用した諸道具の図面も併せて冊子を作った。

昭和44年11月 草野又六翁胸像建設委員会

より転載しました


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