水車小屋のカット香櫨亭通信のタイトル

第9号

平成8年
(1996)5月15日発行

人がいて風景がある

この第9号は、古い家、歴代の家業を守って生き抜き、天寿を全うされた
二人の女性のことを、紹介するかたちになりました。
浮羽町の「平川家住宅」国指定重要文民家 平川ヒサコさん ・小石原村の高取焼宗家・高取静(静山)さん

石川ヒサコさんと香月徳男の写真

ヒサコおばあちゃんが居なくなって
平川家の魅力は半減した・・・
ということがないよう
ご遺族のかたがた、なにかを考えてみて下さい。
浮羽町の関係機関のかたがたも
ひと工夫、お願いします。

小石原民陶の皆さん、唐臼のペースで、ゆっくりやっていって下さい。

平川家住宅の写真

白 昼 夢

昭和五十六年(一九八一)春・・
 この景は白昼夢か・・・と惑いつつ、見事に復元工事が竣工した国指定重要文化財民家のこの平川家を眺めた日のことを思い出す。
 新茅で葺いた重厚な屋根が、春の陽を照り返してキラキラと光っている。深い森に囲まれて、木と竹と草と土と紙の家が、まるで宝物が置かれているかのように、シーンと静まって輝いている。
 眩しく、崇高ですらある眺めであった。

わたしがこの家を初見したのは、昭和三十七年(一九六二)十月十八日。(三十五歳。三等郵便局勤務、郵便・電信係での休日)。久留米からの道のり三十五キロ。
民家研究を志し、古民家を求めて、自転車をこぎつつ、浮羽町は新川谷筋を登りつめてきてのことであった。
 美住(びじゅう)という名の集落に住む屋根葺き職人・大力惣太郎さんが「とても古い家がある」と教えてくれたのが平川家であった。
 一目見て、「この形式は、熊本県北部の菊池郡あたりが北限だといわれている南方系民家ではないか」とひらめいたのだった。
 それから、足繁く調査に通い、結果をまとめて建築学会などに発表。香月論文として一応の評価を得た。

昭和四十六年(一九七一)、九州では四番目、福岡県では最初の国指定重文になった。
この年、わたしは脱サラして、民家研究に専念することにした。・・・これが我が家一家の貧乏暮らしの始まりだった。

朝日新聞切り抜き
1996年(平成8年)5月12日 日曜日

“名物おばあちゃん”平川さん逝く

浮羽町の国指定重文「平川家住宅」の住人
 「まだ元気」と録音せず、後任は長男の光臣さん

浮羽町田篭の国指定重要文化財「平川家住宅」の住人で、名調子の解説が見学者に評判だった“名物おばあちゃん”平川ヒサコ(ひらかわ・ひさこ)さんが九日午後七時半、心不全のため、町内の病院で亡くなった。八十八歳だった。葬儀・告別式は十二日午後一時から同町田篭三八三の一の自宅で。喪主は長男光臣(みつおみ)氏。

生前の平川ヒサコさん 住宅前で

「しゃきっとした口調で見学者に説明」

平川家住宅は台所と母屋を土間で結び合わせた「くど造り」という南方系民家。
十九世紀初めごろに建てられた。一九七一年に重要文化財となり、八一年にかけて復元された。
この時、隣に管理棟が新築され、同居していた光臣さん一家は引っ越したが、ヒサコさんは火の用心などを兼ねて残った。

光臣さんが町役場職員だったため、見学者への説明はヒサコさんの役割だった。
長年住み続けた体験に基づき、山里での生活の知恵なども織り交ぜながら、
構造の特徴や、地方色豊かな貴重な民具を、めりはりの利いたしゃきっとした口調で解説した。
訪ねてきた見学者たちを「さようなら」と言いながら、合掌して見送った。

一昨年夏に体調を崩し、昨年五月まで入院した。その後、しばらく寝たきりだったが、意欲的にリハビリに努め、
歩行器をつけて家の中を歩けるほどに回復していた。昨年冬からの寒さを避けるため、町内の老人保健施設で過ごしていたが、
十九日の退所を前に体調が急変したという。

十一日は弔問客がひんぱんに訪れ、「説明の録音はないのですか・・・」と、生き証人でもある語り部の死を惜しんだ。
まだまだ元気でいてほしい、との気持ちから、家庭も町役場でも録音していなかったという。
 今後、説明にあたるのは町福祉課長の光臣さんだが、説明は休日に限られる。
光臣さんは、新たにパンフレットを用意したり、団体での見学には休暇を取ったりして対応することを考えているという。

もみすりに使う民具「チョロケン」の説明をする平川さん

「気品漂う貴重な人だった」

 六十二年に平川家の民俗学的な価値を見いだし、保存と重要文化財指定のために百回以上通ったという民俗建築研究家の香月徳男さん(六九)=久留米市山本町豊田=は「地味で折り目正しく、口は厳しかったが、目はいつもにこにこ笑っていた。
女性としての気品を漂わせ、古い民家の印象を引き立てていたと思う。保存、復元されたながら、人が住まない民家が多いだけに、貴重な存在だった。ヒサコさん不在の穴をどう埋めるか、町や地元の工夫に期待したい」と話している。

それからまた十五年。
ことし、五月九日夜、ヒサコさんが亡くなられた。八十八歳。

TOPの写真、画面の右下を走っていたのは、当時三歳だった孫の靖子さんだ。
いま、花も羞らう十八歳。これは、現実だ。

もみすりに使う「チョロケン」という民具の
説明をする平川ヒサコさん
(1970年9月、平川家住宅土間で

(香月徳男さん提供)

唐臼小屋の小石原・高取焼宗家 高取静さん

筑前小石原鼓・小堀遠州好み七窯筆頭高取焼宗家十一代の女陶匠・高取静は、
ときおり、作陶の手を休めて、裏山の唐臼小屋に遊ぶ。
 初代の出自が韓国であることから、静は、この唐臼小屋の谷向こうに、
彼ら初代夫婦の為に、古式にのっとった築山式の墓を建てた。

唐臼の槌音が、祖霊たちの心の臓の鼓動であるかのように、谷あいに響く。
 その歳で、しかも女の身で宗家を継承する作陶なぞ無理だ。おやめなさい・・
といわれながらも、火のように燃えて、静は高取焼を再興した。
能面めく表情からはうかがい知れぬ執念。

その彼女も死んだ。一九八三年、七十五才。さきごろ、久し振りにこの窯元を訪ねてみると、唐臼は二基になり、小屋は鉄骨造りに変えられていた。なるほど、大繁盛となるとこう変わるわけかと納得しつつ、わたしは、かって静女史と話しながら歩いた小道を辿ってみた。
 そこでも、時は移っていた。

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