耳納の里を赤く彩る柳坂曽根のハゼ並木

ぐらんざ2005・11 NO72号  ナビゲーター:山田龍蹊

"年年歳歳花相似たり”を違うことなく、今年も耳納の里の晩秋の風物詩「柳坂曽根のハゼ並木」は真っ赤に燃え立つ。

ハゼノキは久留米が生んだ天才画家青木繁がこよなく愛したウルシ科の植物で、「わがくには筑紫の国や母います国櫨多き国」の青木繁の望郷の歌碑も遺されている。筑紫は九州の古称で筑前・筑後の二国を指すこともあるが、この歌のなかの筑紫は、母なる筑後川に抱かれたふるさと筑後である。

18世紀前半、木蝋生産のため九州各地でハゼが盛んに植えられ、耳納山麓でも享保15年(1730)に田主丸の庄屋竹下武兵衛がはじめて植えたとされる。最盛期には筑後地方で百万本を数えたという。晩秋羽状の葉を真っ赤に染めるハゼノキは、蝋の木とも呼ばれ、果実についている蝋を臼でついて取り、和蝋燭の原料として生産、久留米藩の貴重な収入源となった。

しかし、明治時代以降、電化や石油の台頭、ミカンへの転作、道路河川の改修工事などで、ハゼノキの多くが切り倒されていった。そうしたご時勢の中で、柳坂のハゼ並木も、福岡県の天然記念物に指定された昭和39年には、236本あったのが200本ほどに減り、樹勢も衰えた。

青木繁が誇りとする「櫨多き国」の様変わりに、地元の香月徳男さんは心を痛めた。昭和49年にハゼ並木の再生に独り立ち上がった。ミニコミ誌「香櫨亭通信」を発行して、並木保存と木蝋復活を訴えた。

22年前には「第1回シンポジウム・祭り」も開催、保存運動の輪を広げていった。

香月さんと志を共にする仲間も増え、枯失した箇所の補植も進捗、ハゼ並木は着実に復活して平成6年には新街路樹百景にも選ばれている。

最近、蝋燭以外に化粧品、医療品、ろうけつ染めなどの原料として木蝋は見直されている。耳納連山北麓に樹齢二百五十年を最高に1.1kmに連なる見事な柳坂のハゼ並木を、約3km山の方に上がった「けしけし山」の青木繁の歌碑のところまで植えて繋ごうという香月さんの夢は壮大である。

香月徳男氏および、ぐらんざ山田龍蹊氏の許可を得て掲載しています。

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