山田堰 筑後川の有明海河口から上流約56km

*)古賀百工(こがひゃっこう)

享保3年(1718年)上座郡大庭村(現・朝倉市)の庄屋の家に生れ、寛政10年(1798年)81歳で亡くなる(墓は三寺地区上楽の墓地に)。

堀川の恩人といわれ、堀川改良工事をし、新堀川と山田堰を作った人。
今でも、地域の方々が「ひゃっこうさん」と呼ぶことからも、みなさんに敬慕されていることが伺えます。
天明7年(1787年)70歳、土地や住民を水害・旱害から守るため治水問題の解決を計り、筑後川の測量、絵図を作成。

ペシャワール会・灌漑事業

アフガニスタン東部のクナール川に、平成15(2003)年3月~22(2010)年2月までの7年間を費やし、マルワリード用水路全長25.5kmが開通、広大な荒廃地3,000haが農地となり農民15万人が生活するまでに復興した。

江戸時代に作られた山田堰がマルワリ-ド取水堰の参考にされたそうです
*)中村 哲医師(1946年)は、アフガニスタンで活動するペシャワール会代表。福岡市出身。西南学院中学校、県立福岡高等学校、九州大学医学部卒。 日本の伝統的工法である「蛇篭工」「柳枝工」を適用されたという。

  • 蛇篭工: 川護岸に特化したかごで。竹や鉄線などを用いてかごを作り、砕石を詰め込んだもの。
  • 柳枝工:柳は水に浸かっても枯れず、深い根を張ることで土砂の流出を防ぐ。護岸の役目。

参考サイト:水土里ネット山田堰

寛文3年(1663年)に作られていた人工の堀川に取り入れ、下流およそ670haの水田に灌漑するための取水堰
「古賀百工」指揮のもと15歳以上成人男子延べ62万人~64万人が工事に従事したという。
だが、水を最も取り入れやすい位置は、災害をもっとも受けやすい地点でもあり、明治7年、明治18年、昭和55年の水害など崩壊と復旧を繰り返しながら現在の美田をうるおしている。

(右画像)鳥居の下が堀川への取入口



山田堰展望公園に設置された朝倉市の解説板より (赤三角は下2枚の撮影場所)


水神社から見る石堰:
画面右半分が傾斜堰床式石張堰
写真奥が筑後川上流の原鶴温泉方面
写真右が筑後川本流となります。

説明文によれば、200年以上前に傾斜堰床式石張堰といわれる工事が行われています。

左下:岩盤をくりぬき堀川への取水口を拡張します。

天明2(1782)年から天明3(1783)年まで続く「天明の大飢饉」は多くの民が飢餓に瀕しています。
当時、農作物の収穫を安定・増収するため、差し迫った状態で難工事に取り掛かったのでしょう。

水神社の道路を隔てた恵蘇神社上にある御陵山から見下ろしたものです。右が水神社、筑後川本流が上、中央の石畳で水位を上げ、水神社下の水門から 堀川へ導き、8km以上離れた田畑へ送られます。
農業用水として利用するため、江戸時代に造られた山田堰は、100年以上かけて改良が加えられ、
寛政2年(1790)の工事でほぼ現在の形になります。
取水口は御陵山の岩盤を人力で一部刳り貫いた切貫水門になっています。
石畳によって、増水時には石畳全体を水が越えて堰を守り、平常時でも取水量を一定にすることができる工夫がされています。(現地の解説文より引用)

しかし、この工事の後も、高台に位置する菱野・古毛周辺の50町歩の畑地に水を汲上げる事はできず、このために三連・二連の水車が設置されました。

県指定天然記念物

水神社の大樟


朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮と国道をはさんで反対の筑後川よりの本流から山田大堰による堀川への水取口水路の上に祀られている水神社の境内、社殿右側に聳立した老樟樹である。
この樟は社殿建築の際、約2m程度埋め立てられたもので、恵蘇八幡宮の樟に匹敵するものと思われる。

福岡県教育委員会
(水神社境内の掲示板を引用させていただきました。)

県指定 昭和38年1月16日 (所在地 朝倉郡朝倉町大字恵蘇宿)

水神社の狛犬