僻地教育の先駆者

戸田友次郎先生と戸田祭り

天保15(1844)年、1月2日、久留米藩城下の小松原屋敷(現在の久留米市京町・水天宮近く調練場に隣接)に馬廻組300石、戸田慶三郎の三男として生れ、長じて藩校明善堂に学ぶ。

ちょうど幕末から明治へと激動する時代にあたり、当初、藩の馬術師範助手(閑厩方司騎補)などの役をしていたが、明治新政時代になると、御井、御原、山本三郡役場の書記吏員(御井郡原山本三郡役場の書役)として活躍、やがて明治10年前後、市内各所に小学校が開設されると、吏員から教職に転じた 。

明治20(1887)年になると、彼は僻地での教育活動を志し、高良内簡易小学校杉谷分教場に赴任し、徹底した僻地での独特な教育を開始した。
彼は分教場に起臥し、子弟の薫化に努めたばかりでなく、里人全員に対しても、徳育を始め、殖産興業等生活全般にかかわる教育を施した。

教育方法は師弟同行寝食を共にするもので、吉田松陰の松下村塾によく似ている。

彼は教場で教えるばかりでなく、農作業に自ら出て働くだけでなく、農繁期には母親の子育ての手を省くため、教場を託児所として子どもの世話をし、里人に病人が出れば、野の薬草を探してこれを施薬し、無医村の医者の役も果たした。 その行動は徹底した人間愛をもととしたもので、その名声は近郷に知れわたり、彼の薫化に慕い来るものが多かったそうだが、彼の日常生活は質素を極め、僅かな給料もほとんど使わずに貯えていた。

明治25(1892)年初秋の頃、病魔におそわれ、言語に絶する里人の悲しみの中、あらゆる看病に努めてその回復を祈ったが遂に終焉を告げる日がきた。
彼は死の前日、生前貯蓄していた給料で購入した田(一反五畝)と現金150円の寄贈を遺言し、旧暦10月12日(現11月12日)里人の悲しみの中没した。

「師は杉谷であり、杉谷は師である。」と里人は絶句し、彼の威徳を讃え、それから11月12日の命日を先生まつりの日と定め、彼の遺贈した田の収穫の余財で精進料理を作り、里人全員、並びに彼を慕い来る人々によって、彼の遺徳をしのび供養を営み続けている。

顕彰会員一同は百年祭を期に新たなる出発点として益々偉大なる先生の遺徳の顕彰に努めることを誓うものであります。

平成3年11月

戸田友次郎先生遺徳顕彰会一同

墓地傍にあった文章の概要です。

法名釈:城居士・・・御井町・永福寺の過去帳に記載があるそうです。

戸田友次郎先生を偲ぶ会

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毎年11月12日、戸田友次郎先生を偲ぶ会が催されています。

戸田先生が杉谷の分教場に居たのは5年ほどの期間のようですが、それにもかかわらず、偲ぶ会が120回を越えたというのは、
戸田先生の姿勢・生き方が里の人たちに与えた影響の強さもそうですが、里の人たちの先生に対する姿勢の中に、人としての心の暖かさ・真心を感じます。

「生きる証は対価としての金銭を求めることではないよ。」と教えられました。

同じ荘島で戸田先生より1年後に生まれ、明善堂を出て、黒木・北汭義塾で教育活動に携わった、江崎済【弘化2(1845)年4月26日-大正10(1926)年5月25日】という人がいます。
小郡古飯生まれの高松凌雲【天保7(1836)年-大正5(1916)年】もほぼ同じ時代の人といえますが、当時の人たちの志の強さ、人に対する愛、あらゆる面で職業化・分業化の進んだ現代だからこそ、もう一度、初心に立ち返って考えることが必要になっています。

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背景画像は、現地傍の孟宗竹(金明竹)