吉見岳城跡

大友氏の筑後進出の拠点だった

吉見岳城

高良山の支峰、吉見岳(標高131m ・・市史1巻69では標高147.6m)の頂上にあり、高良山茶屋の横、山道を10分ほど下った所。本丸、二の丸、三の丸、出丸、土塁、空堀などが現存し、中世の山城の典型的な形を今なお留めている。

本丸は東西55m、南北22mで、北・西・東三方に土塁がめぐっている。(南側にも一部残存する。)
本丸の西北・東南の二ヶ所に出丸と思われる土塁(幅3m、高さ2m-1mほど)が残っている。本丸の北側斜面には二条の犬走りがあり、犬走りから空堀が北へ三条走っている。(本丸には琴平神社の社殿が建っている。)

  • 二の丸は、本丸の西にあり、東西19m、南北29mの郭であり、
    そのすぐ西に三の丸(東西30m×南北20m)を置いている。
  • 本丸と二の丸の間の斜面には二条の土塁と空堀を配し、土塁の一方は二の丸を取り囲むようにめぐっている。
  • 高良山から吉見岳へ続く尾根線上には幅10m、深さ15mの大堀切を設け、吉見岳から北および西へ延びる尾根線上もすべて掘り切っており、この城の防御設備は北と西側に集中している。

城の水手は明らかでないが、北谷が高良山の内懐に深く入込み、吉見岳から距離的にも近いので、北谷の流れを利用したものと推定される。
また、この城の北西尾根上には東光寺城、西方尾根上には磐井城が配されて、出城としての防御線を強化している。

参考資料:「福岡県の城」廣崎篤夫著 海鳥社刊

築城者についての通説
*)八尋式部:大和の国、楠正成の末流らしいが、武者修行のために天文元年(1532)九州へ下向し、諸所を遍歴の末、高良山へ来て吉見岳城を築いて城主となったと伝えられる。
・・・矢野一貞の「筑後将士軍談」(巻の第43)に紹介されている。
(当時の高良山武士団の中に八尋氏がいたことは確かとされている。)
***戦国時代には社家(大祝鏡山氏・大宮司宗崎氏)、社僧(座主丹波氏) も大友氏の幕下の武将として騒乱に明け暮れた。

*)大友義鑑:義鎮(宗麟)の父で、筑後の星野親忠(生葉城)を攻めた。
天文3(1534)年、筑後に出張し西牟田・三池・溝口の諸氏を討伐しているが、この時吉見岳に在陣したと見られる。

*)大友義鎮(宗麟):
永禄7(1564)年、高良山に陣を構えた。
永禄12(1569)年1月12日、5万の兵を率いて高良山に出陣。(龍造寺が中国の毛利氏に通じて大友氏に抗したため。)戸次鑑連・吉弘鑑理に攻めさせたが、3月に和議が成立した。この時、吉見岳を築城したとある。(「九州治乱記」)
良寛・麟圭が吉見岳に築城した。(「永世和平碑文」)・・・義鎮が築いた吉見岳を守らせたとも考えられる。

永禄13(1570)年、大友義鎮は龍造寺を討つため筑後に侵入、吉見岳を本陣とした。高良山の座主良寛は大友氏に属していたため、弟麟圭を久留米城(篠山城)の城主として龍造寺に備えていた。
しかし、天承6(1578)年、良寛・麟圭の兄弟間に座主争いが起こり、龍造寺に従った麟圭は、兄良寛を追放して高良山座主となった。それ以後、座主麟圭はこの吉見岳城に拠り本城としたものである。天正15年、豊臣秀吉は九州平定のため25万の大軍を率いて筑後に入り、この吉見岳を陣所としたと伝えられている。

吉見岳の南尾根「高坊地」良寛また麟圭の館跡と伝えるのは、これらの事情を物語るものである。

吉見嶽に秀吉が入る。

天正15年4月10日(1587年5月17日)

赤間ヶ関-豊前小倉→秋月-甘木ー大城-本郷-金島-大城渡(太閤渡)-善導寺-筑後高良山-肥後隈本-薩摩川内(「天正太閤道」のコース)

戦国時代:豊後大友氏の支配を受けていた。
古代から近世にかけて多数の古道が交錯する交通の要衝だった。
琴平神社の鎮座する場所に主郭・西へ伸びる尾根上に二の郭、三の郭を配し、背後の高良山に続く尾根の線には数ヶ所の堀切があり、
全体の規模は東西約60m、南北約30mの小規模な山城だったから秀吉の大軍が駐留するには狭すぎるが、府中町(現・御井町)は高良大社の門前町・薩摩街道の宿駅として発達していた。
軍勢25万を率いたという秀吉の滞在中に肥前国主の竜造寺政家や筑紫広門・松浦鎮信等、九州の諸士が続々と参陣した。お供の大小名は100人ほど並んだらしい。
4月11日、秀吉は吉見嶽城を出て、肥後国南関のツヅラヶ岳城(大津山城)に入った。

引用:「太閤道伝説を歩く」著者・牛嶋英俊氏 弦書房刊

35万の兵を督して九州征伐を企て、
天承15年3月朔日、大阪出発、九州に入り、

4月5日秋月に陣を構えた秀吉は、富田左近将監・奥山佐渡守を高良山に遣わしたが、高良山では歓迎しなかったので、二人は山中に攻め入り、門前に火を放ったので、衆徒は驚いて罪を謝した。

11日、秀吉は吉見岳に本陣を移した。座主麟圭は大祝保貞、大宮司孝直らと共に秀吉に謁したが、着衣の下に腹巻を着込んでいたのを見破られて、ことごとくその領地を没収されたというが、これは俗説らしい。(高良山座主歴代記」に秀吉が、高良内・府中・阿志岐・宗崎の4ヶ村を麟圭に与えたとある。)

13日、立花・龍造寺を先発にして肥後に向かう。・・・島津義久を降し九州平定した後、6月1日、薩摩→八代→熊本→南関・・

6月6日、高良山に陣を構える。

6月7日、筑前箱崎着・論功行賞:

  • 小早川秀秋に御井・御原・山本・竹野・生葉5郡と筑前15郡と肥前の内2郡(計22郡)を与え、筑前名島城に
  • 毛利秀包に山本郡の内10村と御井郡の内5村と上妻郡の内38村、三潴郡の内10村、計63村3万5千石を与えて久留米城に
  • 立花宗茂に13万2千100石を与えて柳河城に
  • その他、三池鎮実・高橋直次・筑紫広門らにも分与したが、秀包には特に1000石を神領として高良山に寄付するように命じた。

どちらにしても、2度とも、秀吉の在陣は一夜だった。

黒門:吉見岳城の城門、あるいは高坊地座主館付属の門と考えられる。北谷から登る高良大社の末社である琴平神社参道の途中あたり。

座主館:観行院を利用したため観行院は滅んだらしい。

木村台:三の丸跡は「木村台」と呼ばれている。「御井うもれ話」によれば、大正の初め、敵の本土進攻に備えるため、大砲陣地をここに築いた。その作戦を指揮したのが久留米工兵隊の木村中佐だったので、この名がついたという。二の丸・三の丸の土塁が著しく破壊されて原形を留めないのはこの時の陣地構築によるものらしい。北谷道の突き当りから八尋式部の墓を経て琴平神社石段下に通ずる道も同時に工兵隊によって開削された。

吉見の満花:高良山十景の一つ。慈源公(4代頼元)が寛文9年以降、数年間に数千株の桜苗が植え込まれた。
(永世和平の碑の碑文にこのことが記述されている)

*)高良山十景:
・旗崎の春望(竹楼の春望:座主院の別荘だったが壊されたため)
・吉見の満花・御手洗の蛍・朝妻の清泉・青天の秋月
・中谷の紅葉・不濡山の(雨の下に衆)・鷲尾の素雪
・神代の晩鐘(高隆の晩鐘:鐘楼が廃されたため)・玉垂の古松

琴平神社と永世和平の碑:

安永3年(1774)、高良山民と阿志岐村民の吉見岳をめぐる「山論」のさなかに、早期解決を祈念したものと思われるが吉見岳の鎮守として奉祀されたが鎮祭から54年、藩庁の裁断を仰ぐことなく、山民と村民が仲介に入った府中町民が吉見岳の復旧整備に携わり、自主的・平和に解決したので、これに感動した藩儒・樺島石梁が碑文を草した。

御祭神は大物主神(奈良県桜井市の三輪山に鎮座する大神神社で旧官幣大社、大和国一ノ宮の祭神)・崇徳天皇

明治16年(1883)、筑後川治水の功労者・田中政義の働きで、政府が筑後川の実地検分をすることになり、内務省雇いのオランダ人技師デ・レーケ(大川市導流堤)を吉見岳に案内して筑後川を見せ、次に河流を検分して治水策を立てたという。

(「続久留米市誌」)

高良山茶屋「望郷亭」
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