山川招魂社(久留米市山川町字茶臼山41番地)

左:鳥居からの階段・・・右:入り口の鳥居

1869年(明治2年)2月、旧藩主・有馬頼咸が水野正名(当時・藩政の中枢)に作らせたもので、 維新前後の数々の戦役の死者が多数葬られている。
(池田氏奉納の現地説明板によれば、高山彦九郎等、勤皇殉国の士40柱、佐賀の乱戦死者67柱、西南戦争戦死者191柱)慶応3年、15代将軍徳川慶喜が大政奉還をしたにもかかわらず、旧幕府側の勢力を追討するということで戊辰戦争がはじまった。久留米藩からも木村重任らに率いられて総勢353名が奥州(現東北地方)、箱館へと向い、惜しくも命を落した者をこの地に祭祠した。

御楯神社(茶臼山山頂):明治6年に建立(例祭は毎年10月20日)

社殿
真木和泉守・佐々金平真成・稲次因幡正訓

写真中央:真木和泉守・佐々金平真成・稲次因幡正訓(木の右後)、左右に沢山の墓碑が並ぶ


戊辰戦争・奥州・函館・五稜郭の戦い

文久2年(1862年) 藩主・在府中のため、執政・有馬監物が私見として、公武合体、尊王攘夷を示す
02月19日 大鳥居理兵衛信臣(46歳:真木和泉守の弟)筑前黒崎驛で割腹
06月18日 井村簡次(般か盤)石靭(24歳)摂州大阪で病死
文久3年(1863年)
04月 真木和泉、藩主に謁し、有馬監物を弾劾、藩の方針は尊攘一途であるべきと進言。監物派は真木一派28人を逮捕。
05月 真木ら赦免。親兵として上京。
08月 藩主に上京の勅命。有馬監物上京。公武一和、攘夷に反論を明確にした。
05月8日 深野孫兵衛成久(京都で暗殺される:寺田屋事件で久留米藩に捕われていた真木和泉守の解放に尽力した)
元治元年(1864年)
02月16日 この日、捕われていた天誅組19名は京都六角獄舎で斬られた(第一回処刑)
酒井傳次郎幸成(24歳:従五位・天誅組監察)
鶴田陶司道徳(27歳:従五位・天誅組伍長)
「たたかひの花を散らして今よりは よみじの月を見るべかりけり」
江頭種八国足(25歳:従五位・天誅組伍長)
「数ならぬ賎が此の身を捨てし世は 君と民とを思ふばかりに」
荒巻羊三郎眞刀(24歳:従五位・天誅組槍一番組)
「もろともに君の御為といさみ立つ 心の駒をとどめかねつつ」
中垣健太郎幸雄(24歳・従五位・天誅組伍長)
07月19日 この日、天誅組14名は第二回処刑・六角獄舎)
半田門吉成久(正五位・天誅組砲一番組長、長州忠勇隊に属し、禁門の変(蛤御門の変)で戦死 「大和日記」筆者・墓は京都市上善寺、長州人首塚)
「はりつめてたゆまぬものは大丈夫の あかき心の弓にぞありける」
原道太盾雄(京都鷹司殿で自殺)
07月21日 真木和泉守(歳:摂州天王山で割腹)・池尻茂四郎懋(25歳:摂州天王山で割腹)
07月22日 加藤常吉任重(33歳:摂州天王山で割腹) 松浦八郎寛教 ( 摂州天王山割腹)
08月13日 水田謙治貞恒(常陸国筑波山戦死)
10月23日 河原忠蔵資多(20歳:京都本国寺で病死)
冬: 池尻嶽五郎岳(22歳:常州太平山で戦死) 
慶応元年(1865年)
02月14日 真木菊四郎弦(22歳 長州馬関で死)
慶応2年(1866年)
6月 第2回長州征伐、幕府側として約500名が小倉へ出兵したが、幕府側は戦意がなく大敗。(久留米藩兵はほとんど戦わずに引き揚げた。)
11月10日 淵上謙三祐利 筑前国太宰府で割腹

戊辰戦争:奥州・北海道への出兵・慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年)

慶応3年(1867)
10月14日 徳川慶喜、大政奉還により政権を朝廷へ返上
慶応4年(1868)
1月07日 鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩兵に幕府方が破れ、大阪城を脱し海路で江戸に向かった慶喜に追討令が発せられた。
2月09日 総督・有栖川宮熾仁親王・参謀・西郷隆盛)は東海道、東山道、北陸道の三道から江戸進攻
3月09日(旧新撰組・近藤勇)は新政府軍と戦い完敗
3月11日 小川佐吉(宮田半四郎師人):正五位  (8月11日では?)
鳥羽伏見の戦いで負傷、三田尻の病院で死・天誅組勘定方) 明治元戌辰年
「敷島のわが秋津洲のもののふは 死すとも朽ちじ大和魂」
3月13日 東征軍参謀・西郷隆盛と旧幕臣・勝海舟の交渉で江戸城の無血開城と慶喜の水戸隠居が約束された
3月28日 久留米藩兵は京都を進発
4月11日 江戸城の無血開城
4月18日 大総督本陣、芝増上寺に入る。(久留米藩兵は坊中に宿陣し、馬場先、西丸大手・梅田・中・内裏・坂下・和田倉の諸門・市中の金座の警備、市中巡回の警備にあたる)
5月15日から 大村益次郎の指揮で彰義隊討伐、攻撃開始では久留米藩兵(約350名)は2手に分かれて攻撃した。
5月15日 服部金三郎實堅 (東京上野戦死 41歳)
7月01日 奥羽追討令がでる
7月21日 関東出張の久留米藩兵は船(翔鶴丸)に乗り込み、26日に船(神龍丸)に乗り換える
7月27日 久留米藩兵の別隊は陸路出発、常陸平潟に宿陣。
8月6日 黒岩純太郎信義 (奥州一本木で死) 明治元戌年1872
8月11日 駒ヶ嶺から新地迄の進撃令を受け、仙台管谷に進むが、大勢の同盟軍に苦戦する
日没、ようやく駒ヶ嶺に宿陣
8月11日 菅谷 戦死者: 明治元戌1872
・月貫兵衛正義・牛嶋乙次郎義忠
・青柳儀作貞義(21歳)・亀山清蔵重満(27歳)
・木原善(?)太郎正義(18歳)
8月16日 同盟軍の2回の逆襲に苦戦。3手に分かれて駒ヶ嶺・西山・東本道から進撃、長州、因州の援軍を得て掃討した。
8月16日(明治元) 駒峯 戦死者
・彌永貞蔵廣節(21歳)・岩佐四郎重實・武藤利右衛門正勝(27歳)
・山崎政吉盛光(33歳)・北川内庄五郎(48歳)・ 村田熊蔵行平(31歳)
8月19日 旧幕府海軍を主体とする勢力(榎本武揚) 江戸を脱出
8月晦日 柴田重左衛門時明(北海道で溺死) 明治元戌辰年
09月17日 仙台藩主・伊達慶邦が降伏 (22日 会津藩・24日 庄内藩が降伏)
09月20日 久留米藩は東京出張命令を受け、総督・堀江但馬ら応変隊・山筒隊の軍勢500人が若津から海路で品川に至り東京赤羽邸に駐留
09月30日 東京軍務官から300人の函館出兵を命じられる
10月26日 榎本は箱館五稜郭など拠点を占領
11月  軍艦千歳丸(英国製、600t)を購入
11月10日 久留米藩は横浜を出発(翌明治2年4月12日、江差に上陸)
11月~明治2年8月下旬、仏留学から帰国した小郡古飯出身の高松凌雲は、榎本武揚らと行動を共にし、
箱館病院で敵味方の区別なく施療した患者は1340人といわれた、政府軍の降伏勧告は凌雲を介して行なわれた。
11月7日 渡邉俊吾(大阪で病死)
12月05日 蝦夷共和国成立

明治2年・・・この年の久留米藩の総兵員は(士族:1681名、卒族:5431名)7112名。

4月09日(1869年)新政府軍は、江差の北、乙部に上陸
4月17日 久留米藩は先陣を切って立石村の敵砲塁を攻撃。それ以降、5月15日まで、各所に転戦する
04月17日 佐々金平眞武(25歳:奥州於松前戦死)
05月15日 服部金三郎實堅(41歳:東京上野戦死 )
11月10日 黒岩小三郎定明(40歳:北海道松前で戦死) 明治2巳巳年
5月18日 土方歳三は戦死、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争が終わる
明治4年(1875年) 小西順蔵行直(29歳:奥州松前戦争で被傷→久留米で死)
各藩とも東京へ凱旋の命令が出て、
5月27日 函館出港、6月1日 芝増上寺内に駐留の後、7月21日久留米に帰着。

政府は戊辰戦争に従軍した総督・有馬蔵人以下の隊士に対し論考行賞を行い、
藩主頼咸に対しては太政官から明治2年6月に戊申の戦功で高1万石が永世下賜された。
頼咸は戊辰戦争の戦死者、幕末期に国難に殉じた者を祀るため、茶臼山(久留米市山川町)に招魂社を設けた


久留米藩の千歳丸は

8月01日、摩藩兵170人を新潟へ送る。
9月、新潟から沢 三位、薩長兵50余人を秋田に送る。
11月28日、若津へ帰港した。 ,

*)佐々金平真成(勤皇志士)。維新後に編成された「応変隊」設立では、編成にあたり、戊辰戦争で1869年(明治2)、函館の戦いに応変隊の1小隊を率いて参戦し、激戦の中で戦死した。

佐々金平は不和美作・暗殺の首謀者。 廃仏毀釈により、応変隊は高良山で仏像を放り出したり、壊したりと乱暴なこともしていたので、地元の人達には恐れられていたようです。

註)廃仏毀釈(日本古来の信仰は神道であるとして、外来の仏教を排斥した)


明治6年1月10日、全国を6軍管区(東京・大阪・名古屋・仙台・広島・熊本)に分け、
各軍管区に一鎮台を設置した。

「三潴町史」
「九州軍都物語」著:下津浦忠海


佐賀の役

  • 参加した佐賀兵:1万人以上 (内 戦死者:173名)
  • 明治政府:熊本・広島・大阪・東京の各鎮台、海軍砲兵、海軍歩兵、近衛歩兵、福岡県貴族隊から動員
    • 福岡県貴族隊(士族)戦死者:9人。
    • 熊本鎮台歩兵部隊、18日の佐賀城攻防を巡って、戦死者160人。
    • 大阪鎮台歩兵部隊、鳥栖→佐賀に攻め込む途中、戦死者:17人
    • ・・・・・・・・計:190人)

明治6年、西郷隆盛、板垣退助が主張した「征韓論」と、反対した岩倉具視、大久保利道、木戸孝允らが対立した形ではじまった。

当時の士族の間には、征韓論の支持者が少なくなかった。
特に佐賀では征韓党があり、政府の欧化政策に反対し、封建制度に戻ることを唱える憂国党もあった。

司法卿として国の法律整備に力を尽くし、参議となった後、辞職した江藤新平は、地元・佐賀の異変を知り、説得し、鎮めるのが目的だったらしいが、

明治7年1月中旬
佐賀に帰った江藤新平は征韓党首領となり、
2月上旬
前秋田県令の島義勇は佐賀に帰り、憂国党指導者に推され、両党は協力し、反政府の気勢をいっそう強めた。
明治7年2月中旬
戦闘準備を終えた。兵数は約3000人。佐賀県各地の士族はこの挙兵に応じて直ちに決起する態勢をとった。

佐賀の役関連map


  • 三瀬峠(標高581m)は福岡-佐賀の最短距離、朝日山は背振山系の東南端部、佐賀への入口
  • 佐賀城-31.5km-三瀬峠-26km-福岡県庁
  • 佐 賀-20.0km-三潴県庁(久留米)
  • 佐 賀-21.0km-朝日山-13.3km-府中(御井町)
2月01日 政府御用の金融機関)が小野組に襲われる。(金品の強奪はなかった)→2日に打電され、3日大久保の耳に達する。
1862年6月18日 榎本武揚らはモールス電信技術・機械等を持ち帰って以来、明治4年10月には東京-佐賀の政府専用電信が使えた。
2月04日 大久保は熊本鎮台に佐賀出兵を命じた。
2月15日(午前3時頃)
熊本に直行した佐賀県権令(今の県知事に相当)岩村高俊は、海路で政府軍(熊本鎮台の左半大隊)330名と早津江に上陸、佐賀に向かい、同日中に佐賀城に入る。 征韓、憂国両党が佐賀城を攻撃した。(佐賀の役の始まり)
   (関連:大善寺・宮本洋学校柘植善吾
2月17日
佐賀軍の攻撃は激しく、政府軍は防戦に努めたが、兵力は少なく、弾薬、食料も殆どつきかけ、 陸路を佐賀へ前進した右半大隊の来援も期待できなかった
2月18日
政府軍は一斉に佐賀城の囲みを破って筑後川をわれがちに渡り、府中(御井町)まで逃げてきたが、地理にうとく、各地で佐賀軍の待ち伏せを受け、府中に到着していた右半大隊と合流した時には死者160人(隊の3分の1)を失っていた。岩村も護衛兵に守られてかろうじて佐賀城を脱出し、久留米、両替町(現城南町)の三潴県庁に入った。 岩村高俊の記録では佐賀県全域が戦場と化したとある。
2月19日
九州出張を命ぜられた大久保は、陸軍少将・野津鎮雄の指揮する政府軍とともに博多に上陸
2月19日から
明善小学校は授業を中止した
2月20日
政府軍は博多を出発して南下した。また府中に集結していた熊本の政府軍も行動を起こした。
佐賀軍は県境に兵を配置し、朝日山(標高130.3m)に陣地を構築し、第一防御線とした。
朝日山の階段
新幹線鳥栖駅朝日山途中の空堀と橋

佐賀士族と博多から来た政府軍(野津少将が指揮)との激戦地。
(右上)新幹線鳥栖駅の直近、朝日山の駐車場から
(左)長い急階段が見える。頂上にも駐車場あり、眺望が良い。
奈良時代には、ここに「のろし」の場所、後醍醐天皇・建武の新政頃、小弐一族の朝日氏が築城した朝日山城があった所
(右下)空堀と橋がある。

朝日山の西側は背振山系につながる丘陵が続く。新幹線鳥栖駅の直近。
現地の解説板より

2月21日
政府軍の負傷者を明善小学校に収容して治療した。(同校は弾薬置き場にも使用された)
2月22日
政府軍は朝日山を攻撃し、数時間の激戦後に占領した。神崎で佐賀軍を指揮していた江藤は勝算のないことを知り、佐賀に帰って腹心の者と協議
2月23日:境原・中津隈村・寒水村で戦い
この夜、江藤は鹿児島へ脱走、西郷を頼って再挙を図ろうと2回会談するが、西郷に断られた。逃れた土佐で捕えられ佐賀城へ送られて裁判後、処刑された。(*注)享年41歳。
2月28日夜
城中にとどまっていた島義勇は、島津久光に嘆願するため、鹿児島へ密行したが捕われる
(島義勇:蝦夷地・樺太の探検調査→佐賀藩の海軍軍監→下野鎮圧軍大総督軍監→新政府の東北征討に従う→明治2年(1869)碁盤目のような町並みの札幌を計画した人)

*注)この事件は、政府側となった大久保利通・岩倉具視らによる謀略ともいわれ、維新後の国内不平分子による騒動を恐れ、情報を統制して戦後処理を急ぎ、判決後、即日処刑した(江藤・島は斬首のうえ梟首)

明7年(2月18日~至27日) 山川招魂社境内にある関連の墓 53名 (16歳1名・17歳1名・20歳代4名 残りは不明)

歩兵第11大隊1番中隊  
兵卒:岩崎房次郎(福山藩25歳)・・境原にて戦死  
兵卒:藤田栄太郎(広島藩22歳)・・田原町にて戦死  
兵卒:眞藤勇八(平戸藩21歳)・・・六田村にて戦死  
兵卒:後藤益蔵(柳川藩24歳3ヶ月)・・六田村にて戦死
歩兵第11大隊2番中隊 
少尉:本田宗七(鹿児島藩22歳)・・六田村にて戦死  
伍長:和田金平(広島藩27歳)・間繁光(大村藩26歳)・高須諒三(山口藩30歳)・・六田村にて戦死  
兵卒:森 眞郷(福岡藩24歳)・石井市造(広島藩21歳)・森崎国三郎(福山藩22歳)・阿部道志(福岡藩24歳)・藤井義明(徳山藩26歳)・吉原熊太郎(久留米藩32才1ヶ月)・上田藤平(豊津藩24歳)・・六田村にて戦死
歩兵第11大隊3番中隊 佐賀城・突出戦死  
中尉:津井城郷吉(豊津藩28歳)  
曹長:石崎左久馬(山口藩25歳)
軍曹:松尾勝太郎(白川県)・渡邊新太郎(山口藩26歳)
伍長:天野経輝(福山藩25歳)・小森(?林)眞直(杵築藩)・柴田正時(小城藩30歳)・小野清彦(佐伯藩23歳)・佐久間一郎(山口藩21歳)  
兵卒:瀬戸口藤次郎(鹿児島藩21歳)・甲斐友男(岡藩24歳)・松岡文二郎(岡藩22歳)・野村羊一(山口藩21歳)・高木萌(福岡藩29歳)・隈元郷右衛門(鹿児島藩20歳6ヶ月)・種子田平内(鹿児島藩21歳)・重松儀三郎(豊津藩25歳)・関屋忠八郎(鹿児島藩21歳)・石塚源次郎(福山藩22歳)・鬼頭義溢(豊津藩22歳)・小谷彪太郎(広島藩20歳)・大山昌(杵築藩28歳)・熊谷保二郎(山口藩29歳)・森吾一(平戸藩23歳)・川畑正右衛門(鹿児島藩22歳)・奥村亭大(熊本藩22歳)・藤山英喜(熊本藩24歳)・本門精一(山口藩22歳)・三箇重貞(福山藩26歳)・久保佐助(佐賀藩24歳)・泊喜左衛門(鹿児島23歳)・川崎栄一(小城藩22歳)・・佐賀城突出の節戦死
喇叭卒:河手音之進(山口藩18歳)・伊川伴三(豊津藩18歳)
歩兵第11大隊4番中隊  
兵卒:月禾七兵衛(鹿児島藩25歳)・・縄取村に於いて戦死
歩兵第19大隊2番中隊
中尉:竹垣利義(高松藩23歳) 境原戦死
兵卒:中西源七郎(鹿児島藩37歳)・・田原ノ町に於いて戦死
兵卒:野口恒吉(徳島藩32才)・・・・江見村に於いて戦死
大阪鎮台歩兵第4大隊
伍長:神田又一郎(静岡県士族31歳1ヶ月)・・明治7年2月23日・肥前国中津隈村に於いて戦死

以上山川招魂社誌・山川校区郷土研究会編p52の上半分まで入力済み

以下は御井町誌で再確認すること。

歩兵第16隊1番中隊 兵卒3名・同大隊2番中隊 兵卒8名
・同大隊3番中隊 兵卒20名・ラッパ卒2名

第2大区九少区 久吉静衛(宮内村) ・陸軍曹長・石崎左久馬(山口藩25歳) ・陸軍軍曹・渡邊新太郎(山口藩26歳)・陸軍軍曹・秋元眞(旧広島藩26歳)・藤井敬一(臼杵藩22歳)

詳細は不明ですが、鎮台兵が石川・静岡・和歌山県と遠隔地の出身者がいたことが分かります。
(*名東縣は現在の徳島県・兵庫県淡路島)

2月18日:佐賀縣庁の戦い
軍曹 松尾勝太郎(小倉縣)吉井駅・出張病院、受銃創で2月21日死亡
2月23日:境原の戦い 2名
大阪鎮台歩兵大10大隊 2等兵卒 三明景通(石川縣16歳2月)
軍曹 須佐為助(和歌山縣27歳1月)被銃創・27日三潴陣中病院死
2月23日:中津隈村の戦い 3名
大阪鎮台歩兵第4大隊 伍長 神田又一郎(静岡縣31歳1月)4月23日死亡・原田藤馬(名東縣26歳5月)
陸軍2等兵卒 高尾常次郎(石川縣17歳8月 )
2月23日:寒水村の戦い 2名
大阪鎮台歩兵第10大隊 2等兵卒 秋本政男(名東縣23歳9月)
伍長 竹内郎(名東縣25歳8月)

江藤新平の関連

*)官軍・熊本鎮台第11番大隊士官20名、兵卒75名、軍属9名等、計107名が葬られています。

殉国十三烈士の碑(佐賀市城内1丁目)

処刑の地に建てられた碑で、佐賀臨時裁判所の判決は、4月13日午前5時から行われ、午前9時には江藤・島の2名を梟首、11名の斬刑が終わったという。

13烈士の名前
江藤新平:前参議・征韓党  (41歳)
島 義勇:前秋田県権令・憂国党 (52歳)
重松基吉:島義勇の弟・憂国党
中川義純:元佐賀藩士、隠棲・憂国党
副島義高:島義勇の弟・憂国党
福地常彰:佐賀藩極役・憂国党
山田平蔵:佐賀県中属・征韓党
村山長栄:佐賀藩一心隊隊長・憂国党
西 義質:佐賀県大属・陸軍中尉・征韓党
朝倉尚武:陸軍少佐・征韓党
山中一郎:海外留学生・征韓党
香月経五郎:岩倉使節団通訳/佐賀県中属・征韓党
オックスフォード大で経済学を学び、明治6年末帰国
中島鼎蔵:左院奉職・征韓党

佐賀城 鯱の門 (扉に残る弾痕)

佐賀城・鯱の門に残る弾痕

中央金具の上にある黒い点は弾痕だと思われます。右側の柱にあるくぼみ?は穴の大きさが違っているようですが穴の大きさは男性の人差し指が入るほど。
ほかに鋲の落ちた痕と思われる穴と間違えそうです。

資料:
「久留米市史」
「久留米藩難から新選組まで」著者:松本茂、出版社:海鳥社

山川招魂社では佐賀の乱での戦死者の状況をある程度知ることができ、事変の全体を把握したくて佐賀市内を巡りましたが、
江藤新平の他、官軍側で戊辰戦争に参加し、札幌都市計画に携わった島義勇のように
新政府側で働いた人たちが、この戦いでは反政府側に立って命を落としたのですから、
調べるほどに疑問点が増え、当時、明治政府の抱えていた問題も把握できていません。

佐賀県権令(今の県知事にあたる)岩村高俊の記録によると、佐賀県全域が戦場と化し、江藤新平らの激しい攻防にあい政府軍は筑後川をわれがちに渡り、府中まで逃げてきたとある。(関連:大善寺・宮本洋学校

明治六年、西郷隆盛、板垣退助が強硬に押しすすめようと主張した「征韓論」に反対した岩倉具視、大久保利道、木戸孝允らと対立した形ではじまった。
江藤新平(明治政府で法律整備に力を尽くしていた)の地元、佐賀では士族の不満が高まるが、彼らの多くは征韓論を支持していた。
はじめのうちこそ敗走の色濃かった政府軍だったが、総力をかたむけて平定した。
江藤新平は西郷を頼って薩摩へ逃げ、さらに土佐で捕えられ処刑された。享年41歳。

(政府側となった大久保利通・岩倉具視らによる謀略だったともいわれ、維新後の国内不平分子による騒動を恐れて戦後処理を急ぎ、 「征韓論」一つでも、学校で学ぶ歴史だけでは理解できないことが多くて、まだ時間が掛かります。


*)西南の役

明治十年、西郷隆盛は征韓論に敗れて薩摩へ帰り、青少年の教育のために私学校を設立していたが、新政府に対して拳兵した。政府軍は有栖川宮熾仁親王を征討総督に擁立して久留米に本営を設立した。その間、田原坂では最大の激戦があり、負傷した兵達は久留米師範学校明善堂に設置されていた久留米病院に運びこまれ、死亡者は招魂社に葬られた。招魂杜の百数十基からなる墓石は、いわゆる西南の役とよばれるその戦争の有様をまざまざと私達に語りかける。死亡者は招魂社に葬られた。久留米病院開院中の死傷者は、以下のとおり。
将校:負傷者154(死者13) 下士:負傷者425(死者15) 卒:負傷者2534(死者134)
警部:死者14(死者1) 巡査:不明(8) 軍夫:負傷者10(死者3)不明(8)

『久留米市史』第三巻より)

将校)少尉以上  下士)下級武士、足軽など 卒)下級の兵士、兵卒

御楯神社(石段を登った茶臼山山頂):明治6年に建立(例祭は毎年10月20日)
高山仲縄祠堂碑:明治8年9月に建立
日清・日露戦争の英霊がまつられ、「爆弾三勇士記念塔」やビルマ戦忠魂碑などがある


招魂社の最奥部、神社の北北東、調整池の東に、日独戦争時のドイツ人捕虜の墓地があったが
(広さ3畳帖程を竹矢来で囲み、前には芝生を敷き詰め、数本の桜を植えていたというが、野中町に移されたらしい)

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構成・製作:kurumenmon.com