八尋式部

上古の宮地地域

崇徳天皇(1119-1164)頃まで、
三井郡の平野には有明海の入り江が深く入り、所々に葦の茂る沼沢地があり、点々と浮かぶ島には原住諸族が住んでいた。筑後川の河口は耳納山下に開け、川の氾濫で流出した沃土が堆積して平野を形成していった。

宮地邑は、正平14年(1359)7月、懐良親王が九州南朝(宮方)約4万の兵を上げて、御井郡杜の渡を越え、
少弐・大友等の武家方(足利幕府方)6万と対陣、戦まで約2ヶ月間の対陣中、本営を置いた。(宮陣神社縁起)
・・・・それ以前、この地域を何と呼んだか不明確だが、禁中の汲場、潮井場、館丁(タッチョウ)などの地名が残っていた。

八尋式部卿藤原朝臣(八尋兵庫の父、式部卿・式部太輔とも)は大和国高取城主、八尋伊豆守藤原重友の弟で、
天文年間(1532-1555)に下向して諸国を巡視、諸族の勢力状態を観察していたが、
草野氏、高良山社家に推され、天文壬辱・好水嶽(吉見嶽)に築城し城主になった。

・・・・この頃室町幕府(1336-1573)が衰微して、高良社領も三潴、瀬高をはじめ、豪族の横領によって年貢が京に送られにくくなっていた。

八尋式部は社寺荘園を擁護した。
草野氏と提携した大善寺領・北野社領は、八尋式部に隋伴してきた武将等の屯田兵が守ったが、座主・大祝・神管・武管領にも万一を考えて武装を命じた。

高良山の僧兵が組織されだしたのは永禄の頃(1558-1570)である。

八尋式部は代官として南筑後地方の寺社領にも同様な方法を講じた。
後に、兵馬の権を座主に譲って北谷に隠棲し、天正3年(1575)7月78歳で亡くなった。
彼らの墓の西2間の所に、家従・良右衛門(没・58歳)の墓がある。

*)天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い

八尋兵庫(式部の子)は、座主の権力が大きくなり、草野氏との仲が悪化すると、宮地邑渡利に館を建て、宮地五郎丸を領有した。

座主等は島津勢とともに筑紫攻めに加わっていたことがある。(「神代記」その他)

秀吉の九州征伐【天正14年(1586)7月-天正15年(1587)4月】この頃の高良山は房舎3860房、本領3800町、全社領7300町だった。

はじめ、秀吉配下の武将2人が訪れた時、その対応が悪かったので、彼らは山中に攻め入り、山門に火を放ち攻めたので、罪を謝して秀吉に謁を乞うたが、異心がまだあると見て引見せず。吉見岳城に入って一泊した。
草野鎮永は発心城で旗を上げた。

(これらの事情が、後に鎮永が南関に呼び出され殺される原因になったようだ。)

楠氏の後裔:

下の画像は北谷にある八尋式部夫妻の墓


八尋式部:好水院殿獄憶念累徳大居士・天正3年7月・78歳で没
式部の妻:室慈光院殿好誉妙月貞心大姉・天正4年9月没

資料:宮地邑物語 (附 吉見嶽城考)
著者 楠 正人(医学博士)

高良山茶屋「望郷亭」
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